「大英」だけではない、魅力あふれる イギリス紀行 文学の舞台や自然美の湖水地方や田園、水道橋…
初めてイギリスを旅してから13年も過ぎたが、その年、ウイリアム王子とケイトさんのご結婚直前でイギリス国旗が各所に掲げられ、テレビ取材の準備も進められていたこともあって、よく覚えている。栄光の大英帝国時代の名を冠する大英博物館を訪ねたいと、機会をうかがっていた。その旅は、イングランド北部の湖水地方から中央部のコッツウォルズ地方、さらには南西部の古都バースなど多くの魅力に満ちた土地を訪ねる10日間のツアーだった。「大英」だけではなかったイギリスの魅力を、行程に沿って記す。
名作『嵐が丘』の舞台、ハワースからスタート
2011年の晩春、深夜の関西空港からエミレーツ航空でドバイを経由してイギリスのマンチェスターへ。所要時間は11時間余。空港から市内のホテルへ
直行し、観光は3日目からだ。やはり遠い。小説で有名なエミリー・ブロンテの『嵐が丘』の舞台となったハワースからスタートした。
私が『嵐が丘』を読んだのは大学2年の頃だった。虐げられた孤児の長年にわたる復讐劇を描いた大まかなストーリーだけは頭の片隅に残っていた。映画の方は、帰国後に調べてみるとアメリカで2度、メキシコとフランス、日本でも翻案されていて、本国では1992年にやっと上映されたという。私は見逃していたが、ビデオで見た。
エミリーの姉シャーロットも有名な『ジェイン・エア』を、妹も作品を遺す文学3姉妹が育ったという家がブロンテ博物館として公開されていた。内部は一家が住んでいた当時のように再現され、遺品や遺稿などが展示されていた。父親が牧師で、ゆかりの教会はタワー以外当時の建物ではないが、礼拝堂などのたたずまいがその頃の趣を連想させてくれる。
博物館の裏手に回ると、ヒースの丘陵地が広がり尻尾の長い馬が放牧されていた。『嵐が丘』の題名のような、激しい雪と風が吹き荒れる荒野とは異なるものの、まさに小説で読んだ舞台に引き込まれる思いがした。小1時間散策して郵便局を覗くと、王室ご成婚を祝う記念切手が売っていて、悲恋の物語の世界から一挙に現実に戻された。
渓谷沿いに大小無数の湖が点在する風光明美な湖水地方は、国内有数のリゾート地となっている。ところが今や海外からも多くの観光客が押しかけるようになったのにはそれなりの理由があった。世界一有名になったウサギ『ピーターラビットの波奈氏』の故郷だからだ。
湖水地方の南の拠点ウィンダミアの湖畔ボウネスにベアトリクス・ポター女史の記念博物館がある。レストランで名物のサンドイッチがメインのアフタヌーンランチを食べ、しばしポターの世界に浸った。絵本の印税などで農場や土地を買い求め、その財産をナショナル・トラストに寄付したのだから、功績は大きい。土産物屋が建ち並ぶ通りを下るとウィンダミア湖クルー
ズの桟橋に出た。多くの水鳥が生息し、白鳥が遊んでいた。アンブルサイドまで約30分間、船上から国立公園の自然美を堪能した。この辺りでは、イギリスの誇る自然詩人ウィリアム・ワーズワースの故郷でもある。
私の好きな「虹」の一節だ。
わが心は躍る 虹の空にかかるを見るとき
わがいのちの初めにさなりき
われ、いま、大人にしてさなり われ老いたる時もさあれ
イギリス北部は、すぐれた文学作品などを生んだ土地でもある。「ローマ人は都市文明をつくり、イギリス人が田園の文化をつくった」との格言を聞いたことがあるが、実際に歩いてみて納得したものだ。
大聖堂が聳えるリヴァプールはビートルズ出身
リヴァプールは19世紀、世界に先駆けて産業革命を進展させたイギリス第2の貿易港として栄えた。綿工業のマンチェスターとの間に1830年、世界最初の旅客鉄道が走り、この街の港から世界に輸出された。20世紀後半に入って沈滞するが、英国国教会の最大の大聖堂が74年の歳月をかけ1978年に完成している。あいにく礼拝中で内部を見ることができなかった。
リヴァプールと言えば、世界を席巻したビートルズの出身地である。大聖堂と道路を隔てた学校がなんと凶弾に倒れたジョン・レノンの母校だった。メンバーが闊歩した通りには、格好いい若者が語らっていた。港町にはビートルズ博物館やショップがあり、にぎわっていた。経済的には沈滞するも、美術館などの文化施設に恵まれ、オーケストラ活動、さらにはサッカーの名門チームもあり、ビートルズを生んだ街のエネルギーが感じられた。
リヴァプールから車で約1時間、2009年に世界遺産に登録されたポントカサルテの水道橋にたどり着いた。長さ307メートル、幅3.61メートル、高さは最大37メートルにも達するとのこと。1805年に完成し、英国でもっとも長く、もっとも高い水道橋である。
水路の船着場には観光船が幾隻も停留していた。私は橋の下から全容を見るためディー川のほとりまで駆け降りた。約200年も前に「よくも架けられ
たものだな」と感嘆した。何度も、その威容をカメラに収め、今度は息せき切って急坂を登り橋の上へ。橋の上にある水路は船を通すために使われていた。その横に人が渡れる狭い道があり手すりがついている。橋の最も高い中ほどまで進み、引き返した。
ポントカサルテ水道橋から約1時間半、今度はバーミンガム郊外のアイアンブリッジへ。その名の通り鉄の橋は1779年、世界初の鉄橋として、3年余の歳月をかけ完成した。30メートル、高さ12メートル、総重量400トンという。産業革命を象徴する橋として、1986年にイギリス初の世界遺産となっている。橋はその後、何度か補修されたものの、今も歩行者専用で使われている。欄干には繊細な細工が施され、デザインも優れている。橋を渡って脇の階段を通って、側道からセヴァーン川のほとりに降り立って、鉄橋を見上げてみた。なんと川面に橋が逆さに映り、ちょうど円形に見える。意外と知られていないスポットのようで、ユニークな眺望を独り占めできた。
シェイクスピア生家からコッツウォルズへなかなか覚えられないストラトフォード・アポン・エイヴォンという小さな町は、イギリスが世界に誇る劇作家ウィリアム・シェイクスピアの生まれた所で、生家などゆかりの建物が残っている。4月23日に生まれ、奇しくも同じ日に53歳で亡くなっているが、ちょうどその日に訪ねたのだった。
四大悲劇の『マクベス』『オセロ』『リヤ王』『ハムレット』、そして喜劇の『真夏の夜の夢』など世界各地で上演されているが、ご当地ではロイヤル・シェイクスピア・シアターで、ほぼ連日観劇出来る。シアターでお土産にプログラムを戴き、美しいエイヴォン川沿いの散策を楽しんだ。
この日は午後、今回のツアーの目的の一つでもあったコッツウォルズ地方の3つの村を巡回した。渡航前、NHKの「世界ふれあい街歩き」の番組が2回に分け放送されていたのを見ていただけに、おおまかな雰囲気は感じ取っていた。のどかな自然の広がる丘陵地に、蜂蜜色のライムストーン(石灰岩)で出来た小さな家々が点在していた。
一口にコッツウォルズと言っても、東京都とほぼ同じ広い地域に約100の集落が散在しているのだ。その中でバイブリー、ボートン・オン・ザ・ウォーター、ブロードウェイの3ヵ所を訪ね歩いた。多くの家は草花で飾った庭を持ち、豊かな住環境なのだ。イギリス人の理想は便利な都会より、田舎暮らしだという。このため週末の別荘に、あるいは2時間近くかけてロンドンまで通勤している者もいるそうだ。カントリー・ライフの文化が息づいているのだろう。ただどこも観光客であふれ、住人には迷惑だと思われた。
古代の都市バースと謎の遺跡ストーンヘンジバス(風呂)の語源となったバースには、発掘された古代ローマン・バスがある。先住ケルト人が崇めていた鉱泉を紀元後57年に侵入してきたローマ人が、癒しの場として整備したのだ。何しろ現在もなお、聖なる泉と呼ばれる貯水池に約3000メートルの深さから温泉が湧き出ているそうだ。浴場跡や神殿跡を見学できるが、行列に並んで待たなければならず、街の探索に時間を割いた。
18世紀に入り、バースの街は社交と保養の一大センターとして建築家のジョン・ウッド親子二代にわたって設計された。父親がローマのコロシアムをイメージし、白色のバース石を使って、半円形の住宅群「ザ・サーカス」を建てたのに続き、息子が三日月の形をイメージした、湾曲した30個の集合住宅「ロイヤル・クレセント」を建てたのだ。
1987年に世界遺産に登録されたバース市街は、世界でも屈指の壮麗な集合住宅で、まさに地上の楽園といった趣。東日本大震災で壊滅的な被害を受けた地区に、1ヵ所でもこうした整備都市の街並み空間が造れないかと思い浮かべた。
最後に取り上げるのが、ロンドンから約130キロ、なだらかな平原の中に突然姿を見せる神秘的な巨石群ストーンヘッジだ。部分的には倒壊や消失していたが、二本の石柱に乗っかって横たわる巨石もあり、二重の円を描くように配置されている。約80個の巨石のうち、最大のものが約50トンもあるのだから驚く。
紀元前3100年頃から建設され、夏至の日には中心部の祭壇石と入り口に置かれている石を結ぶ直線上に、太陽が昇る巧妙な仕掛けもあるそうで、現代人にはミステリアスな空間だ。以前は巨石の側まで近づけたのだが、1986年に世界遺産に登録されてからは、遠巻きに眺める見学ルートが定められている。各国の説明書があり、音声ガイドも無料で貸し出されていた。
大英帝国の名残をとどめるロンドンの名所
イギリス滞在の最後の3日間はロンドン泊まりで、半日をビッグベンや国会議事堂、ウェストミンスター教会、バッキンガム宮殿などの名所めぐりに充てた。イギリス伝統の華やかな衛生兵交代式も間近に見ることが出来た。残りの2日間は1日フリーチケットの地下鉄・バス乗車券を購入して「大英」など博物館、美術館めぐりに費やした。
大英に最も近い駅は翌年のロンドン・オリンピックに備え工事中だった。やむなく別の駅から地図を頼りにあの宮殿風の柱列が並ぶ玄関にたどり着いた時には感動を覚えた。ルーヴルはじめヨーロッパの他のミュージアムと異なり、荷物などの安全検査もなく、しかも無料で入館できるのには驚いた。しかし日本語の有料ガイド本がありましたが、館内マップは残念ながら備えられていなかった。
「大英」の名を冠するだけあって質量とも抜群だ。時間的には旧石器時代から近代、空間的にはヨーロッパから中近東、アフリカ、アジア、インド、中国、日本まで世界各地の傑作を網羅している。とても1日や2日では見ることはできない。2日間とも「大英」に赴き、主に初日は「ギリシャ・ローマ」と「エジプト」を、2日目は「アジア」とりわけ日本ギャラリーを回った。
「エジプト」のコーナーでは、真っ先に有名な「ロゼッタ・ストーン」を見た。1799年にナイル河口西岸ロゼッタで、当時遠征していたナポレオンの部下が偶然発見し、1802年にイギリスが接収したのだった。ここに刻まれた象形文字が解読され、一躍注目されたのだ。
続いて「ギリシャ・ローマ」ではアテネのパルテノン神殿群には目を見張るものがあった。
仏像も陳列されている日本ギャラリーパルテノン神殿を飾っていた破風彫刻の女神や「騎士たちの行列」「座せる神々」などの浮彫のすばらしさには感嘆した。これらの展示品は19世紀にイギリスに持ち帰ったエルジン伯爵の名にちなんでエルジン・マーブルズと呼ばれ、大英の至宝中の至宝となっている。
一方こうした展示品について、エジプトやギリシャ政府は「かつての大英帝国の略奪」との見解から、幾度となく返還要求をしている。文化財の流失をめぐる事情を知っているだけに、見学しているといささか複雑な気持ちになった。イギリス側は「返還すると保管状態が悪化してしまう。人類全体の資産なのだから、世界一の保管技術で管理した方が良い」といった理論を展開し、返還を拒否し続けているのだ。なるほど多大な経費を捻出して保存しているとの立場で、ロンドンに来れば世界各地の文化のあらゆる傑作が一堂に展示され、しかも無料で公開されている点は理解できた。
日本ギャラリーは1990年に開館、2006年10月に約1年の大規模な内装工事を経て、館収蔵の日本コレクションを常設展示する会場として再オープンした。「日本―古代から現在まで」と題して、古墳の埴輪から青銅器、浮世絵、仏像などに混じって現代の漫画「日本のコメディマンガ「聖☆おにいさん」に至るまで、3万点の所蔵品の中から約300点が展示されている。
2008年から三菱商事は、10年間のスポンサーシップとして、100万英ポンドを拠出することを決め、日本の過去から現在の物語を魅力的に伝える、日本文化の発信拠点となっている。ただ場所が5階の片隅にあって、訪れる人は少ない。展示室の入り口に東日本大震災の寄付金箱が置かれていたのが目に止まった。
大英博物館のほかヴィクトリア&アルバート博物館も訪ねた。ここも膨大な展示だが無料。ロイヤル・コレクションとウイリアム・モリスが設計した「緑の食堂」などを軸に鑑賞した。有料の企画展も開かれており、ファッションデザイナーの山本耀司の個展が催されていた。
「大英」とともに予定していたナショナル・ギャラリーはバスを乗り継いで訪ねた。ここも無料なのだが、絵画だけにカメラは厳禁だった。日本語版の館内マップがあり、フェルメールの「ヴァージナルの前に立つ若い女」やゴッホの「ひまわり」、モネの「印象・日の出」や「睡蓮」など約30点を探し出しての鑑賞だった。
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イギリスの旅は、予想以上に収穫があった。それまでに約50ヵ国に行っていたが、イギリスは仕事などでの機会がなく、その後もなぜか後回しになっていた。さすがに「大英帝国」の歴史を誇るだけあって、美術・博物館のスケールに感嘆し、世界遺産にも見るべきものがあった。しかしそれ以上に、一面の菜の花畑や田園の美しさが印象に残った。田舎に安らぎを求めてきたイギリスの田園文化が営々と息づいていた。