経済危機から復活、五輪の聖地ギリシャ世界史を飾った輝かしい古代文明の名残をそこここに
4年に一度、世界の人々を熱狂させる平和の祭典オリンピック。その発祥の地がギリシャにある。聖火はオリンピアの遺跡で点火され、開催地へと運ばれている。パリ五輪の開会式がセーヌ川で行われ、船上パレードは五輪発祥国のギリシャが先頭で登場していた。古代地中海世界の大国であったギリ
シャのアテネにアクロポリスが鎮座する。2024年5月、秋篠宮家の次女、佳子さまは日本との外交関係樹立125周年に公式訪問されクロポリスにあるパルテノン神殿を視察された。私が初めてギリシャを訪れたのは、国家破綻危機が報じられ深刻な経済危機が続いていた2011年12月だった。
アクロポリスの丘からの眺望は圧巻
関西空港発午前零時20分、カタール航空でドーハへ。約11時間半の飛行で、乗り換えに2時間余、ここからアテネへ4時間40分だった。ところがドーハで軍事演習と重なり出発が1時間半遅れ、到着まで約20時間もかかっ
た。日本との時差はマイナス6時間で、アテネに着いたのが午後2時前になった。ただちにアクロポリスの丘に直行する予定が、この時期の入場時間は午後3時までなので、最終日まで持ち越しとなってしまった。しかしハイライトのアテネと周辺のスポットから書き始めることにする。
海抜154メートルのアクロポリスの丘から眺めるアテネの街は壮観だ。高台にある古代の遺跡から現代の都市景観が一望できる。逆に市内のどこからでもアクロポリスの丘を仰ぎ見ることができ、悠久の歴史が混在している。夜の街からライトアップに照らされる古代の景観も格別だった。もちろんアクロポリスの丘は、1987年に世界遺産に登録されている。
ギリシャ文明が花開いた栄華の名残をとどめるパルテノン神殿の遺跡に立つと、大英博物館にあった彫刻の数々が、この地で修復・復元されたなら、どれほどすばらしい光景が眼前に広がるのであろうか、と複雑な思いにかられた。訪問時、保存工事のためクレーンが置かれ、やや風情に欠けた。その北にカリアティードと呼ばれた優美な6体の女人像を柱廊にしたエレクテイオンの建物が望めた。
古代ギリシャは宿敵スパルタに敗れ、民主政治は衰退し、その後もアレクサンダー大王のマケドニアやローマ帝国、ピザンティン帝国などに支配される。そしてパルテノン神殿も建造後2100年にして、オスマン帝国の火薬庫になっていたため、ヴィネツィア軍の砲撃で大爆発を起こし崩壊してしまった。
なんとも無残で愚かな戦争の歴史。日本では縄文晩期から弥生早期にかかる時期に、大理石をふんだんに使用した重層建築の神殿が出現していたのだから驚きというほかない。そんな時代に世界に先駆け都市国家を形成し、民主政治を確立していたギリシャが、21世紀になって、国家破綻の窮地に立ってしまうとは…。
かつてパルテノン神殿を飾っていた破風彫刻の《女神》や《騎士たちの行列》、《座せる神々》などの浮彫は、19世紀にイギリスに買い取られた。1801年から1812年にかけて外交官エルギン卿によってイギリスに運ばれ、現在はロンドンの大英博物館に収蔵されている。
パルテノン神殿にあった彫刻は、持ち帰ったエルギン伯爵の名にちなんで「エルギン・マーブルズ」と呼ばれ、大英博物館の至宝中の至宝となっているのだ。ギリシャを訪ねた同じ年の晩春、大英で鑑賞していて、その美しさには感嘆したばかりだ。
一方こうした展示品について、ギリシャ政府は幾度となく返還要求をしている。しかしイギリス側は「返還すると保管状態が悪化してしまう」といった理屈で、拒否し続けている。ユネスコでは、「ギリシャとイギリスが話をする場を提供することです」と、難題を率直に認めている。
ただ文化財返還の動きはヨーロッパで徐々に広がりを見せており、パルテノン神殿の彫刻については、バチカンが2023末、バチカン美術館所蔵の一部をギリシャ正教会大主教に寄付することを発表。事実上の返還が決まった。
2011年3月に神戸市立博物館で、「大英博物館所蔵 古代ギリシャ展」を鑑賞し、日本初公開の傑作《円盤投げ》(ディスコボロス)の美しさに興奮した。
美術、文学、哲学、スポーツなど様々な文化が花開いた古代ギリシャ。なかでも「人類史上もっとも美しい」とも評されるギリシャ美術は、その後の西洋文明における「美」のお手本となったのだ。
ギリシャ観光の目当ては大英博物館にあった彫刻の数々が施されていたパルテノン神殿だった。とはいえローマ以前に古代国家を築いたギリシャだけあって世界遺産も多く、好奇心を満たす旅になった。わずか1週間の駆け足だったが、エーゲ海クルーズも楽しむことが出来た。
国が危機でも幸せに過ごすギリシャ人?
アテネ周辺を案内していただいたのは、ギリシャ政府公認ガイドの資格を持つノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティさんだ。1939年佐賀県生まれで当時72歳。43年前に日本で知ったギリシャ人と結婚し、ずっとアテネに住んでいる。
ギリシャをこよなく愛しているノリコさんは東日本大震災時、母国・日本にいたそうだ。帰国後、ギリシャの知人から日本の窮状に援助の申し出があったと言う。「生活は楽ではないが、もう一人や二人は養える。震災孤児を受け入れたい」とのアテネ市民の言葉に感動を憶えたとのこと。
エーゲ海沿いの高速道路からは、リゾートハウスが点在している。「ほとんどが市民のセカンドハウスです。そんなにお金持ちでなくても、休みには出向いてきてヨットに乗って楽しんでいますよ」とのことだった。
日本で伝えられていたような市民生活の深刻さは、街の表情からも見られなかった。「一時、デモや集会の騒ぎもあったのですが、12月ともなると、ほとんど見かけません」と、ノリコさんは話していた。東日本大震災のニュースに、ヨーロッパで「日本壊滅」との風評が流れたのと逆のケースだ。
ギリシャの国民性について、ギリシャに3年間在住したことのある作家の池澤夏樹さんは朝日新聞で「幸福なギリシャ」のテーマで、皮肉交じりに次のような文章を寄せている。
前の政府が巨額の財政赤字を隠していた。公務員の数がとんでもなく多くて、いわば国民みんなが国にたかって暮らしていた。(中略)国家が破綻しかけているというのに、国民はこの事態に反対するデモをしている。これまでのような楽な暮らしをさせろと訴えている。EUを牽引するドイツなどからは「なんといいう連中だ!」という声があがる。(中略)
生きる原理が違うのだ。ギリシャがEUに入ると聞いた時の危惧はそこに由来する。国家とか世界経済とか、金融とか、そういうグローバルでない人々。EU加盟の直後に聞いた愚痴は「おいしいトマトはみんな北に行ってしまう」というものだった。
早朝、アテネを出発しミケーネに向かう途中、コリントス運河を観光した。ギリシャの本土とペロポネソス半島をつなぐ陸地の狭まった部分を掘って造られた1893年完成した。6343メートルあり、両岸に迫る絶壁の迫力はまさに絶景だ。
ミケーネは、アテネから約130キロ、紀元前17世紀末に栄えた古代都市遺跡だ。トルコのトロイの遺跡を発掘したあのハインリッヒ・シュリーマンが、ホメロスの叙事詩『イリアス』を信じて発見し、円形墳墓跡から黄金のマスクなどを発掘している。王宮跡や城壁、巨大な切り石を用いた獅子門などの遺構から、その繁栄ぶりがしのばれた。
近くに入り口が三角形のアトレウスの墳墓があり、内部に入り天井を見上げると、見事な蜂の巣の形状をしていた。入り口の上にあるまぐさ石は120トンとか。ほぼ原形をとどめており、当然ながら、ほとんど盗掘されていたそうです。紀元前1250年ごろに建設されといわれ、高度な技法に驚くばかりだ。
墳墓内部の天井は蜂の巣の形の形状アテネへの帰路、オスマン領となっていたギリシャで19世紀前半に首都のあったナフプリオンに立ち寄った。現在の人口は、わずか約1万4千人ほどだ。
車中では、ノリコさんからギリシャ神話を聞いた。太陽の神アポロンは、清純で可憐な乙女ダフニに恋をし、腕をつかむが、男性を嫌う彼女の腕は小枝になり、身体は月桂樹となった話もその一つ。アポロンは「お前と一緒に過ごしたい」と小枝を折り、頭に載せたのが月桂冠の始まりで、マラソンなどの競技の優勝者に与えられるようになったとのことだ。
奇景や古代の聖地、エーゲ海の魅力
ギリシャ中部カランバカに到着したのは夜だったため、気づかなかったが、翌朝、ホテルの裏手に散歩に出ると、奇岩が林立し、その上に建物が乗っかっているではないか。1988年に世界遺産に登録された有名なメテオラは、ギリシャ語で「中空に浮かぶ」を意味する。この異様な光景は水の浸食作用で生まれたと考えられているが、湖が風化して岩石が露出したと言う説もあるようだ。
奇岩の高さは20~30メートルから400メートルに及び、建物はいずれも修道院だ。15-16世紀には24も数えたそうだが、今は6ヵ所のみ。このうちルサヌ修道院とヴァルラアム修道院を訪ねた。修道女のためのルサヌは3階建てで、小規模ながら修復され美しいイコンが飾られていた。
ヴァルラアムは規模が大きく、断崖の上に建っており、滑車の縄はしごがいまも垂れ下がっています。貯蔵庫には、生活用水が1万3000リットルも入る16世紀の樽が置かれていた。礼拝堂には17世紀のフレスコ画が掲げられ、イコンや木彫品なども陳列されていた。
現在は修道院まで道や階段が整備されているが、どれほどの困難な工事であったことか、孤立無援で暮らす修道士の生活はいかに不便であったことだろう。下界とは隔てられた場所だけに、神への祈りに没頭できたのかもしれない。便利社会の現代人に、生きることの意味を考えさせる観光地でもある。
メテオラからデルフィへの途中、映画「300」で話題になったセルモビーレスに立ち寄った。紀元前480年スパルタ王レオニダスの元に大帝国ペルシアの使者が訪れ、服従を要求するが、レオニダスはこれを拒否し、その使者を殺害した。そしてわずか300人の軍勢で100万人のペルシア軍を迎え撃った激戦地で、記念碑が建っていた。
古代の聖地であった考古遺跡のデルフィは、紀元前にアポロンの神託が行われていた。またこの地は「大地のヘソ」(地球の中心)と考えられていた。アポロン神殿は巫女による神託を受けた所で、6本の円柱が残ってい
る。神殿北西の丘の上に、4世紀に創られたギリシャ最古の劇場遺跡も35段の階段席などほぼ原形そのままに痕跡をとどめていた。アクロポリスの丘と同じ1987年に世界遺産に登録されている。
遺跡のふもとにデルフィ博物館がある。聖域と周辺からの出土品を展示していた。最も優れた文化財は青銅製の《御者の像》」。1896年に劇場付近で発見されたそうだ。
アルカイック期の彫像の中でも、保存状態がよい傑作。不思議な笑みを湛える《ナクソスのスフィンクス像》も、10メートル以上もある柱の上に置かれていたとのことでが、印象的な出土品だった。
帰国前日にはエーゲ海の1日クルーズに出かけた。湖のように穏やかで刻々と7色に変化すると言われるエーゲ海だが、あいにくの荒天。風が強く寄港が心配されたが、アテネ港を離れるにつれ回復し、予定通りイドラ島へ上陸。海岸沿いに土産物屋が軒を並べている。細い急坂の路地に入ると、そこは迷路のようだ。この島ではタクシー代わりにロバが活躍し、車は無用である。
続いて降りたポロス島では、土産物を物色していて時間を費やした。最後のエギナ島はアテネと並び繁栄を誇った所だ。雨になったが、島の守護女神
アフェアを祀る神殿があり、出向いた。保存状態が良く、かなり原形をとどめていて、後期アルカイック神殿の最高傑作とのことだ。同じ島の聖ネクタリオス修道院の「ドーム型の屋根」は、「ギリシャ正教会」特徴だという。
帰国前夜、アテネ市内にある第1回近代オリンピック競技場を見学した。2004年に開催されたアテネ・オリンピックのメインスタジアムとして大改修が施されていた。夜間はライトアップされていて神秘的であった。初めてのギリシャの旅では、古代オリンピックの聖地オリンピアには行けなかった。他にもエビダウロスの古代遺跡や、ドスの中世都市、ミストラの要塞なども持ち越した。
2010年代初頭に財政危機で事実上破綻したギリシャ経済が、「奇跡の復活」を遂げている。2021年に入ると設備投資や輸出が息を吹き返し、ギリシャの景気は急速に回復した。さらに、ユーロ圏の行動制限の緩和で旅行需要が刺激されると、観光業が息を吹き返し景気の回復を牽引するようになったという。
2028年のオリンピックはアメリカのロサンゼルスで開催される。その年までにギリシャを再訪し、オリンピアの遺跡を訪ねたいものだ。紀元前8世紀から1000年以上にわたって繰り広げられた古代オリンピックの競技会は、ゼウス神に捧げられた神事だったという。ゼウス神はギリシャの国家破綻を救ったのかもしれない。
2028年のオリンピックはアメリカのロサンゼルスで開催される。その年までにギリシャを再訪し、オリンピアの遺跡を訪ねたいものだ。紀元前8世紀から1000年以上にわたて繰り広げられた古代オリンピックの競技会は、ゼウス神に捧げられた神事だったという。ゼウス神はギリシャの国家破綻を救ったのかもしれない。