文化財保存に貢献、日本画家の平山郁夫さん 〜平和を求め、仏の道を描いた平山芸術の足跡を追悼
日本画壇の重鎮であった平山郁夫画伯が2009年12月2日に逝去され、2021年13回忌を迎えた。生前は画家として《仏教伝来》や一連のシルクロードを描いた数々の名作を遺しただけでなく、ユネスコ親善大使、文化財保護・芸術研究助成財団理事長、東京藝術大学学長など、さまざまな立場での業績をはじめ、国際的な文化財保存や平和活動でも貢献された。1998年に文化勲章、2001年にマグサイサイ賞など国内外から数多くの栄典や表彰を受けている。国境と民族の壁を乗り越えた「共生」へ「美を描き、美を救う」平山芸術の足跡をたどり追悼する。
■各界から2600人余が参列し「お別れ会」
まずは2010年2月2日に東京で厳かに営まれた「お別れ会」の様子を記す。財団法人日本美術院と東京芸術大学の主催の「お別れ会」は東京都内のホテルで開かれ、2600人余が参列し、献花した。生前の幅広い活動もあって、美術界だけでなく政財界や各国大使館などからも多くの関係者が詰めかけた。祭壇には遺影の下に、シルクロードを描いた群青の砂漠に月の作品と対照的に明るく輝く太陽を拡大複写した屏風が置かれ、文化勲章や天皇、皇后両陛下からの供花などが飾られたていた。私も偉大だった平山画伯の功績を偲び合掌した。
日本美術院の松尾敏男理事長が弔辞を読み上げ、「若き日の《仏教伝来》に始まるシルクロードの道は先生の生涯を通しての大きな流れとなり、シルクロードという言葉自体も画壇のみならず社会の中で定着し、改めて一般の人々に日本文化の原点やその流れを考えるきっかけを作ったと言えます。絵画が社会に対してこの様に大きな啓発力を持ったというのは嘗てないことでした」と述べた。まさに「シルクロードの画家」としての道を拓き、功績を遺したのだった。
平山さんは1930年、広島県豊田郡(現尾道市)瀬戸田町に生まれる。15歳の時に勤労動員先の広島市で被爆した。1947年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学、前田青邨に師事。1989年から6年間と再び2001年から4年間、東京藝術大学学長に就任する。日本美術院理事長、日本育英会会長、日中友好協会会長、ユネスコ親善大使などを歴任した。
この間、29歳で描いた《仏教伝来》(1959年、佐久市立美術館蔵)により、画家として新たな境地を切り拓く。被爆による白血病に苦しみながら、「心に残る一枚を」ともがいていた平山さんは、ふと小さな新聞記事に目を留める。「東京オリンピックの聖火をギリシャからシルクロード経由でリレーして運んではどうであろう」といった内容だった。
その記事を読んでいた時、インドへ命がけの求法の旅に出た唐僧・玄奘三蔵の姿が、あたかも天の啓示を受けたかのように浮かび上がってきた、という。玄奘が苦難の旅からオアシスにたどり着いた場面の着想につながった。白馬にまたがる玄奘が天竺からの帰途、西域のオアシスに着く姿を祝って、樹木が瑞々しく茂り、足下に草花が咲き乱れ、小鳥がさえずり、犬も駆け回っているという構図で、前を行く僧が指し示す手は、希望と使命感を意味している。
自信作で第44回院展に出品したが 賞は逃す。ある日、朝日新聞に掲載された展覧会評を読むと、美術評論家の河北倫明氏が「この絵には、群青全体の色調が独特で、朱、金、白の滲むような輝きが含まれ、老成の中の若々しさ、みずみずしい静けさ、爽やかな情熱といったものが印象的である」と評価していた。平山先生は布団の上で跳び上がるほどうれしく、何度も読み返したそうだ。
■玄奘三蔵のご縁で多くの薫陶を受ける
私にとって画伯との面識は、朝日新聞社時代の1993年にアンコール・ワットの保存救済のシンポジウムでの記念講演にさかのぼる。戦後50年の1995年に企画した「ヒロシマ21世紀へのメッセージ展」では、画伯が描いた代表作の《広島生変図》(1979年)を所蔵先の広島県立美術館から借用し、感銘を受けた。
原爆によって一面火の海に化した広島の街の中に原爆ドームがシルエットのように浮かび、天空には不動明王が描かれた作品だ。被爆者としての画伯の平和への思いが深く伝わってきた。その後、何度も平山郁夫展に関わり、平山芸術に触れながら、人間としての歩みも知ることになる。
しかし薫陶を受けることになるのは、玄奘三蔵のご縁といえる。1997年7月、私は初めて鎌倉の平山邸を訪ねた。99年の朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」の企画推進のための協力要請だった。
その頃、平山さんは薬師寺に奉納する玄奘三蔵をテーマにした《大唐西域壁画》(2000年、薬師寺玄奘三蔵院)(2000年)を制作中であった。プロジェクトは展覧会、学術調査、シンポジウムの三本柱からなり、総監修やシンポの基調講演などを引き受けていただくことになった。
個人的にも、最初の拙著『夢しごと 三蔵法師を伝えて』(2000年、三五館)の表紙に本画を使わせていただき、私の郷里、愛媛県の新居浜文化協会55周年には、記念講演会と、私との対談も引き受けてくださった。
亡くなった翌年の2010年夏、平山さんの故郷に1997年に設立され、実弟の平山助成さんが館長を務める公益財団法人平山郁夫美術館から、今後の顕彰活動について、相談を受けた。「できれば具体案を」とのことだった。私が平山さんから数々の薫陶を受けていた事情を先方が知っていたためだ。
私は次世代への継承につながる地道な活動を提案した。平山郁夫美術館では、私の提案を受け入れ、企画展コーディネーターを委嘱された。新居浜を皮切りに名古屋、瀬戸内、明石、京都、北九州、南陽、八王子、長崎、熊本、田辺、朝来、大阪、富岡、三重へ全国15都市を巡回した。
名古屋会場では記念シンポジウムが開かれ、和光大学名誉教授でアフガニスタン文化研究所所長の前田耕作さんが、バーミヤンや敦煌、アンコール遺跡などでスケッチをする平山さんの貴重な写真をスクリーンに映し、「各地を歩かれ、救済すべきものをユネスコや国に訴え、資金の窓口になる文化財保護のための財団を立ち上げ、世界の文化財救済の最初の牽引者であり、大きな力の基礎を創った」と力説した。
前田さんは、バーミヤンでの大石仏の爆破に触れ、「原爆ドーム同様、愚かな人間の行為の負の遺産として、復元すべきではないというのが平山先生の主張でした」と言及していた。しかし前田さんは「先生の真意は、すべてのことはアフガンの人たちが自ら決めるべきだと言っておられたところにあると思います」と強調したのが印象的だった。
また豊田市美術館の吉田俊英館長(当時)は、平山作品の流れをひもときながら、「同じ年に描かれた絵の題材に日本と他国や朝と夜、同じ画面に過去と現在などを対比させています。また東と西、人と人、過去と現在さらには未来まで結びつける作品を見受けます。シルクロードをはじめとして、何かと何かを結びつける道が重要なテーマになっています」と、学芸的な視点で分析した。
■「文化財赤十字構想」を提唱し実践
日本文化と仏教の源流を探り続けた平山さんは、東西文化の交流の道・シルクロードへと視点を広げる。トルコのカッパドキアから、アフガニスタン、インド、イラン、シリア、チベット、敦煌、楼蘭などへの旅を繰り返し、中でも仏教東漸のシルクロードは、生涯をかけてのテーマであった。
シルクロード行は約150回を数え、現地に息づいている歴史や文化、人の営みに触れる。そこから様々なスケールの大きい作品を着想した。遺跡を単なる風景としてではなく、豊かな文明交流の視点で捉えた。
こうしたシルクロードを描いた数々の作品からは、文明への深い洞察力が感じられる。しかし旅で目にした遺跡の荒廃は見過ごすことができず、文化遺産を風化や紛争から守る「文化財赤十字構想」の提唱にたどりついたのだ。
敦煌の継続的な文化財保護のため1988年に文化財保護振興財団を立ち上げた際、発起人代表の平山さんは、その役割について「文化財赤十字」の構想を表明したのだった。当初、「敦煌財団」ともいわれたが、その後の展開は広く世界に向けられた。
「文化財赤十字構想」を打ち出した平山さんの着想は、第一回ノーベル平和賞を受賞したスイスの慈善事業家、アンリ・デュナンが創設した「国際赤十字」の精神に依拠している。デュナンは戦場に置き去りにされた傷病者の惨状に、付近の住民を募って、敵・味方の区別なく手当てをして救った。
シルクロードを歩き続けた平山さんは、自然災害だけでなく戦禍や盗掘などの人災によって危機に瀕している文化財に心を痛め、デュナンの精神にわが意を得て「文化財赤十字構想」を打ち立てたのだ。人類の「知」の成果ともいうべき文化遺産は人類共通の宝として守っていこうとの考えだ。
敦煌への取り組みからスタートした文化財保護活動は、アンコール遺跡群の調査から保存・救済に向けられ、アフガニスタン文化遺産復興ならびにバーミヤン大石仏調査・保護活動、中国と北朝鮮にまたがる高句麗壁画古墳群の世界遺産登録への貢献、イラクの文化財支援事業など、シルクロード各地へと広がった。
とりわけバーミヤンの大石仏爆破には衝撃を受け、平山さんは、「一度破壊されれば、二度と同じものは生まれてきません。優れた文化財は継承されることによって生き続けるのです。それは古くなっても美しいのです。その『美』を赤十字の心で救済することは、国境や民族、宗教の壁を乗り越えて急務なのです」と訴えていた。
「文化財赤十字構想」の精神とその意義について、平山さんは東京での講演会で、次のように述べている。
平山さんのまいた種は、芽を出し、着実に実を結び始めている。東日本大震災による被災文化財の救済事業も根幹を成す精神的支柱が「文化財赤十字構想」である。
文化財保護・芸術研究助成財団は、2011年から「心を救う、文化で救う」の呼びかけのもと、SOC(Save Our Culture)と称する救済活動を打ち出した。国際協力を得ながら官民協働のもと、被災した地域社会の復興に資することを目的としている。5億円を目標に募金し、2012年4月から本格的に事業を実施した。
平山さんが1980年代から提唱してきた「文化財赤十字構想」は、消滅の危機に瀕している世界中の優れた文化遺産・文化財を、国際協力によって地球規模で保護し、後世へ伝えようというものだ。日本人による国際貢献の一つのあり方として、大きな成果を挙げながら、没後もその精神は受け継がれている。
平山さんが力を注いだ主な事業だけでも、シルクロードを中心とする文化財・文化遺産の保護はもとより、美術工芸品や建造物の保存修復に対する助成をはじめ、伝統技術保持者等の人材養成事業、芸術研究・文化財保存研究の奨励、海外主要美術館が所蔵する日本古美術の修復援助、自然災害や紛争による被災文化財の救出、そして芸術文化振興への支援など、枚挙にいとまがない。
それらの中でも、ユネスコ親善大使として尽力した北朝鮮高句麗古墳群の世界遺産登録をはじめ、アンコール遺跡や敦煌石窟の保護活動、南京城壁の修復事業などに対する助成活動、さらにはバーミヤン大仏の保護活動などは、国際間の友好親善と平和運動に多大な貢献をなし、世界的な評価もきわめて高い。
■底に被爆者として平和願う心、次代へ
没後5年の節目の年、広島県立美術館に続いて、長崎県美術館でも7-8月にかけて「平山郁夫展」が催された。広島と長崎は2つの被爆地である。両会場には、被爆者の平山さんが精魂込めて描き上げた《広島生変図》が出品された。原爆当時の悲惨さを目の当たりにしていただけに、原爆のことは題材として描けなかったそうだ。平山さんは「自分は生かされている」という言葉を、よく口にしていた。その後の生き方や画業・文化財保存活動の根底には、亡くなった友への無念な思いや、被爆者として平和を切望する心があった。
平和への願いを込めた印象に残る作品に、《平和の祈り——サラエボ戦跡》(1996年、佐川美術館蔵)がある。平山さんは国連の平和親善大使としてサラエボを訪ね、瓦礫の山と化した町を写生していると、子どもたちが集まってきた。その時の着想で絵筆を執った。決して戦場の光景を描くことがなかった平山さんは廃墟に立つ子供たちを描いている。
「戦争の苦しみから生まれる芸術は、泥沼に咲く蓮の花だ」。被爆者の平山さんはこの言葉を肝に銘じていた。「蓮の花は清純無垢な花の代表だが、その花が育つのは泥沼であり、清流の透き通った水では、美しい花は咲かない」(画文集『サラエボの祈り』1997年、NHK出版より)と記す。
平山さんはサラエボで出会った子どもたちに、泥沼の中で咲く清純無垢な蓮の花の姿を求め、サラエボの戦場となった地獄から、すくすくと新しい芽を出してほしいと、子どもたちの未来を願われたのだった。
「シルクロードを世界遺産に」との提唱も、平和への熱い思いが込められていた。平山さんが資金を出してシルクロードのウズベキスタンの首都タシケントに建設した「文化のキャラバン・サライ(隊商宿)」は、考古学研究、展示施設を中心に、文化芸術に志を持つ全世界の若者が宿泊できる施設で、運営・管理は現地で実施している。私も2008年に訪れたが、平山精神はしっかり根づき活動中だ。
今後はユネスコやJICA(国際協力機構)などの協力を得ながら、「21世紀のキャラバン・サライ」がシルクロードの沿線に次々と建設されれば、平和と文化の大公道になるであろう。平山さんがひるむことなく貫いてきた平和を希求する精神に、時代は応えていかなければならない。
平山さんは1998年から亡くなるまでユネスコ親善大使を務めた。そのユネスコ憲章の前文の冒頭に「人の心の中に平和のとりでを築かなくてはならない」といった有名なくだりがある。「文化を守ることは民族の誇りを守り、人々の心を守ることにつながる」が信念の平山さんには、まさに画業と文化財保護活動を通じて、人々の心に平和の大切さを呼びかけてきたのだった。
平山さんは生前、「日本は文化力によって、世界平和に貢献を」と力説していた。人類共通の文化遺産を守る活動による「文化防衛国家」としての方向性に、平山さんの「次世代へのメッセージ」が込められている。
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