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落日

日の光が濃い橙色に変ってきた。窓から斜めに日が入ってきて、私は反射的に目を閉じる。目の奥に残像が揺れる。
信号が変わり 、バスは年老いた人々を乗せて緩やかに発進する。

辺鄙な場所にある私の家と街とを繋ぐバス。もう何百回、何千回この青い座席に座り、独特の鈍いエンジン音に揺られた。
平凡な小学生だった私は、平凡な会社員になった。

バスが花屋を通り過ぎた頃、あの大げさに重厚な建物が見えてくる。豪奢な門。その奥に続く、西洋風の高い壁。
初めてそれを見たときは、なんて立派で美しいのだろうと驚嘆したものだ。

レンガ造りの一見無害なその門の横には「××刑務所」と古い字で彫られている。
平凡な私は、大人になった今でも、その中にある本当の絶望も希望も知らないでいる。

「ねえ、あたしね。大きくなったらパパと結婚するの。」
後ろの座席に座っている少女がささやくように言う。
「そうか、それは楽しみだな。」
それより少しだけ大きいささやき。

バスは停留所で止まり、車内には束の間の静寂が訪れる。私は後ろの座席の二人の気配に耳を澄ませる。
大きな手に撫でられた少女の頭は。滑らかで柔らかい髪の毛は。父親の目じりにある深い皴は。
幸福の証そのものだ。
ガラス一枚を隔てた外には、あのレンガの門が大きく口を開けているというのに。

窓の外には、夕日に照らされてさらに赤くなったポストが突っ立っている。門の中から深い紺色の制服を着た初老の男が歩いてくる。
彼はポストの口の中へ白い封筒を、一枚ずつ、丁寧に、落としていく。

そうか、この孤独な赤は、彼を待っていたのか。

ポストの腹の中に落とされた手紙を書いた人たちの顔を想像してみる。そこに書かれた言葉たちを想像してみる。その文字の丸みを、筆圧を、匂いを、想像してみる。思い浮かぶのは懺悔や訴えの言葉ばかり。
いや、本当は、そんなはずないのに。

もしも。
今バスに乗り込んでいる人の中に、まさに門から出てきたばかりの人がいたなら。そしてその人が私の隣の座席に座ったのなら。私は何を思うだろう。

もしも。
その人が隣の私に、今日は暖かくて良い日ですね、などと話しかけてきたなら。私はうまく笑えるだろうか。丁寧な声で、気の利いた言葉を返せるだろうか。

頭ではわかっている。優しさ、道徳、平等、モラル、常識。しかし、心はいつでも誤魔化せるとは限らない。


ようやく役目を終えた紺色の制服の男は、門の中へ帰っていく。バスは再びゆっくりと走り出す。私は男の背中を見送りながら、あの白い封筒たちを受け取る人の顔を想像している。

「ねえ、あたしね。大きくなったらパパと結婚するの。」
後ろの座席にもうあの親子はいない。あの少女はいつの日かの私だったのだろうか。



おわり

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フィクションですが、自分自身の話でもあります。
善い人間になりたい、とずっと思っていますが、なかなかうまくいきません。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

渡部有希

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