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80年前の空襲で祖父が失ってしまったもの

今年90歳になる私の祖父は、1945年3月10日未明、当時9歳の時に本所吾妻橋にあった自宅で東京大空襲にあいました。
空襲を受けた日のことなど祖父から聞いた話については前回前々回に投稿しています。
今回は、空襲時に住んでいた本所吾妻橋に行ってきました。
(母も一緒に行きたいとのことで3世代でのプチトリップです。)
昔の辛い戦争体験だけでなく、祖父の思い出も垣間見える1日となりました。祖父はこの日よく眠れたそうです。

本所吾妻橋駅で地図を見る祖父と母

最後に訪れた時のこと

空襲前に過ごした本所に訪れてみたくなったという祖父。
当時の自宅の住所を覚えているというので、早速行ってみることにしました。
地図で見ると浅草の隅田川を挟んだ隣、アサヒビールの建物のすぐ近く。

はるな:
空襲がきて逃げてからは一度も行ってない?

みねお:
翌日か、数日後に一度だけ様子を見に行ったかな。もう焼け野原ですっかり様子が変わってたねえ。
空襲で焼けちゃった遺体も沢山あったんだから。あれは忘れられないね。

本所吾妻橋駅まで電車で行きそこから歩きました。
祖父は「こんな道ぞいに家があった気がするなあ違うかなあ」と言い、
昔の記憶を引っ張り出しながら目の前に広がる町と照らし合わせているようでした。
地図を見ながら住所に辿り着いても、確信を持てていない様子の祖父。
私も流石に住所間違ってたんだろうなあと少し残念な気持ちになっていた時、
祖父がとある建物の前で何かをじっと考えていました。

みねお:この呑龍っていうのがねえ。お寺か神社だったと思ってたんだけど近所にあったんだよ。昨日言ったじゃない?これのこと。

はるな:ほんとだね。確かに古い石碑もあるね。

前日に住所以外に目印となるものを祖父に聞いているなかで、出てきていた「呑龍」という文字がそこには掲げられていました。
祖父が記憶していた住所は正しく、自宅があった場所が特定できました。

合ってた、、!と歓喜の私。

空襲があった夜のこと

1945年3月10日の東京大空襲の日、どのように空襲から逃れていったのか。
実際に祖父の記憶を頼りに当時の道を歩きながら話を聞きました。

はるな:自宅にいるときに空襲が始まったんだよね?すぐに逃げたの?覚えてる?

みねお:もちろん鮮明に覚えてるよ。防空壕に入ってる人もいたけど、これはまずい。と父がいうので大八車に急いで家財道具を積んで家族で逃げることにした。
防空頭巾を被ってね。逃げる途中で隅田川にもたくさんの人が飛び込んでたけど父の指示で飛び込まなかったんだよね。

はるな:川に飛び込んだ人は沢山亡くなったみたいだもんね。

みねお:そうだねえ。子供が泣き叫んだりしてたのも覚えてるね。

吾妻橋の上のはるなと祖父みねお


途中お母さんが家に忘れ物を取りに戻ったりもしたが家族全員で空襲を逃れた。
隅田川を渡る途中の吾妻橋の上では、家族の中で暑いから川に飛び込もうという意見も出たが、お父さんの判断で川には飛び込まずに橋を渡って浅草駅の方へ抜けていった。
その後の道筋は覚えていないが、混乱する東京の夜、懸命に逃げていったという

おまけ:神谷バーの電気ブラン

せっかく浅草に行くんだから、神谷バーにも寄りたいと言っていた祖父。
社会人になってから、仕事帰りに神谷バーでよく電気ブランを飲んでいたらしい。観光客で賑わう休日のお昼時だったが運良く入れ、私は初めての電気ブランで祖父と乾杯した。

チェイサーにはビールが定番らしい。

空襲により失われた祖父の思い出

空襲前の記憶がほとんどない祖父。
一夜にして一変してしまった暮らしを乗り越えるためには、空襲前の生活のことは忘れるしかなかったのでしょう。
それでも当時の住所や近所の「呑龍」のこと、家の周りの景色を覚えていたり、本当はきっと忘れたくない楽しい思い出も沢山あったんだと思います。
戦争により生活が一気に変わってしまうだけでなく、当時9歳だった祖父にとっては楽しかった記憶や大事な思い出もなくなってしまうのだなと感じました。

スカイツリーがよく見える本所吾妻橋

次回、メンバー4人で祖父から聞いた話について振り返り、対話した内容をまとめます。ぜひお読みください!


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