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ワインと小説 ②

これはまだ、私が若かった頃の話だ。
あの夏、東京はいつもの年をはるかに超えて暑かった。私は当初、鎌倉あたりの海の家にひと夏、アルバイトに行くつもりだった。
ところが、夏休みに入る直前に叔母から一本の電話があった。
知人の教師がお目出度で、夏の間、その教師の登校日を代わりに担当してくれないかと。当時の私は、出来たばかりのスイミングスクールのコーチをしながら、中学の教師になるための勉強に日々を追われていた。それでも、避暑地としての長野は実に魅力的な場所だった。緑に囲まれた快適な気候、静かで美しい広い空、勉強のための集中力を維持するにはうってつけだった。そんな中で週に一度だけ、その過疎ともいえる村の小さな学校に子供たちの相手をしに行く。私にはとても素敵なことに思えた。二つ返事で叔母に快諾を伝え、大急ぎで準備をし、その学校が用意をしてくれた村の宿泊施設に一カ月、寝泊まりしながら登校日の当番をすることにした。
幸いなことに、その学校には立派なプールがあった。私は校長先生の御好意で、当番日以外でもプールを使って良いと言われていた。そこで私は、勉強に飽きたとき、無性に体を動かしたいとき、若い情熱を持て余してしまう時、そんな時は決まって学校に来て一心不乱に水の中にもぐった。

あれは確か、最後の登校日だったか、そのひとつ前だったか、とにかく夏の終わりの近づいたある日の事だった。
いつものように学校に行くと教室には女生徒が一人、来ているだけだった。多分、他の生徒たちは宿題に追われたり、旅行に行っているのだろう。夏休みは残りわずかなのだ。
彼女はキラキラとした瞳をこちらに向けて今日は何をするのかと尋ねてきた。私は、流石に彼女と二人きりでプールに入るのは気おくれがすると思って、つい、二人でのプールの使用は許可が下りないから、今日は部屋で何かしようと持ちかけた。彼女は嬉しそうに頷いて、しばらくは前回の登校日以降の互いの一週間について報告をし合ったが、片田舎のこんな夏の事だ、直ぐに話題は尽きてしまった。そこで私は体育倉庫の中に野球のグローブとボールがあったことを思い出し、彼女を誘って校庭に出た。
良く晴れた、広い校庭でするキャッチボールは本当に気持ちが良かった。短い時間の中で、彼女は少しずつだが遠くにボールを投げることが出来るようになっていった。

そんな時だった。空に黒い雲が見る見るうちに広がって、気がつくとポツリポツリと雨が降り出し、次の瞬間にはどしゃ降りになった。夏の太陽に照らされた体に、雨は命を与えるような気持ちよさだった。私と彼女は一時、時間を忘れて雨に打たれていた。しかし雨は瞬く間に私達の体温を奪った。私は寒がりはじめた彼女を連れて校舎の中に入り、教室で待つように指示し、私自身は職員室に置いた自分の鞄を取って、中から大きなタオルを一枚と、プールの時のために着替えとして持ってきたグレーのTシャツを持って彼女の待つ教室へと向かった。
彼女は薄暗い教室で窓の外を見ていた。雨はまだやみそうもなかった。私はタオルと着替えを渡すと隣の部屋で着替えてくるように言った。彼女が教室を出ていった後で不意に寒気を感じて私は白いポロシャツを脱いで教室の中の椅子の背にかけた。遠く、本当に遠くの雲に切れ間が出来始めていた。

彼女が戻ってきたとき、当然のことなのだが私の貸したTシャツを着ていた。大人物のそれは彼女にはあまりにも大きい気がしたが、そのアンバランスな何かが私を落ち着かせなかった。私は会話もそぞろに窓の外を眺めていた。彼女も彼女で上半身をさらけ出した私に近づいてくるのが恥ずかしいようなそぶりを見せていた。
沈黙はどこまでも硬質で永遠にその緊張から解放される気配がない気がした。そんな時だった。
雲の切れ間から一条の光が校庭に差し込み、それはやがて、いや、驚くような速さでそれいっぱいに広がり、校舎と校庭を染めていった。校庭の水たまりに太陽が反射してキラキラと光りそれが校舎の窓ガラスに反射して、世界を金色に染めていた。
「…綺麗」
そう言ったのが私だったのか、彼女だったのか、私にはどうしても思い出せない。教室の中にどちらの声ともつかないその言葉がこだまして、気がつくと彼女は私の隣に立っていた。私は窓側の席に座って彼女と二人、その景色を食い入るように見つめていた。それはきっと実際には三分ほどだったはずだ。でも私にはその時はとても長く感じたし、長くそうしていたいとも思った。でも、この年になって、その日の事を思い出そうとすると、それは一瞬の出来事だったとしか記憶の中にはなかった。
彼女が何か言いたげに私を見ている気がした。
私も何か言わなければと彼女を意識していた。
でも、結局のところ私達は何の話もしなかった。私は彼女を学校の門まで送って職員室に戻ったあたりで、Tシャツの事を思い出したが、翌週には返って来るだろうと簡単に思って、その日は帰宅した。
しかし、その後、私は結局彼女に会う機会には恵まれなかった。彼女は翌週、高熱を出して登校日を欠席した。もしかしたら本気になればTシャツは取り戻せたかもしれないけれど、あの日、薄暗い教室の中で私の服を着た彼女に抱いたほんの僅かな高揚が、それを取り戻すと醒めてしまう気がして、Tシャツはそのままに東京に戻った。東京の残暑は厳しく、私は何度もあの長野の夏を恋しく思った。
それから。私は中学の教師になり、今は山梨の中学校で数学を教えている。時折、部活動の前や、学園祭などの折に、女子学生たちがスカートにTシャツ姿でいるのを見かけると、あの激しい雨と金色の校庭をはっきりと思い出す。彼女は今でも元気だろうか?私のあのTシャツはどこに行ったのだろうか。

人づてに聞いた話だが。
あの夏、登校日の当番をさせてもらったあの学校は、最近取り壊されてしまったという。古い木造の、映画にでも出て来そうな、思い出のあの校舎。

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