「ベイマックス」と「フランケンシュタイン」
ディズニーの映画「ベイマックス」を視聴。まだ視聴していないの方のために、ネタバレのない程度に背景を説明しよう。
ベイマックスとは主人公の兄が発明した心と体を癒す「ケア・ロボット」である。動くマシュマロ。質感は浮き輪、もしくは富山県民にとってのソウルスポーツ「ビーチ・バレーボール」。あれは当たってもさほど痛くないので、子ども時代は好きなスポーツだった。サーブで回転をかけるのが得意だったのを思い出す。
さて、そんなことはどうでもよかろう。
ここでは、映画「ベイマックス」とSF・ミステリの古典「フランケンシュタイン」の関係性について、少しだけ触れてみたいのである。
叔母が観ていた映画は?
物語の中盤で、深夜、主人公とベイマックスがこっそり家を抜け出すシーン。叔母は映画もしくはドラマを観ている。ベイマックスがふと足を止め、映画に一瞬見入るのだが、主人公がベイマックスの手を引っ張って無理やり連れていく。
この映画こそ「フランケンシュタイン」にほかならない。
正確に言えば「フランケンシュタイン」そのものではなく、この作品を暗示させるような作品である。じつをいうと、日本語吹き替えの台詞「できたぞ…できたぞ…できたぞ!」では、何ができたのかよく分からない。
しかし英語オリジナルになると、「It's alive, it's alive! It's alive!(生きてる、生きてる!生きてる!)」になる。さらにその日本語字幕は「生きてる 怪物に命が宿った!」と、より意図を明確に翻訳している。
「フランケンシュタイン」はメアリ・シェリー(詩人パーシー・シェリーの妻)が10代にして創作した小説だ。硬質な文体、プロットの巧緻、設定の独自性、後世への多大な影響、どれをとってもSFの古典たるにふさわしい作品である。生命の本質をつかんだ(と思い込んでいる)科学者フランケンシュタインが、死体という無生物をつなぎあわせて「怪物」という生命を生み出してしまう筋書きである。
ベイマックスの自我の芽生え
ベイマックスは、人間くさい挙動をするロボットだが、それはあくまで「ケア」を目的として発明されたロボットだからだ。
だから本来は、人間へのケアと関係のない事柄に対して興味を持つはずはないのだが、ベイマックスは足を止めて映画に見入ってしまう。
重要なのは、「無生物に生命が宿った」という内容の台詞に対してベイマックスが興味を持ったように、劇中で演出されていることである。
劇中ではほぼ数秒だが、ここはベイマックスが人間的な「自我」を獲得した、あるいはすでに獲得していたことを示す重要な一コマであるように思われる。
これ以上は、どう書いてもネタバレになってしまうのでここでやめる。ただ、人工物に自我(=魂)が宿るというテーマにおいて、2作品には大きな共通項がある。しかし、「フランケンシュタイン」ではそれが「科学に対する恐怖」として、「ベイマックス」においては「科学による癒し」として対照的に表現されていることは興味深い。