夏 スイミングの思い出 芽生え

猛暑を超えた酷暑が続いている。

基本的には冷房が効いた室内での中仕事なので、炎天下の中外で働かれている方には本当に頭が下がる思いだ。年々暑さが酷くなっているとニュースも世の人々も言うが、正直昨年や過去の夏がどれだけ暑かったかという体感を覚えていないので、毎年「今年もクソあちぃな」くらいの感想しか抱かない。

暑がりかつ汗っかきの僕だが、昔からなぜか夏が好きだ。それはおそらく、幼少期から水泳を習っていたことが大きな要因なのではないかと自分で分析する。

運動音痴で体育の授業では恥しかかいていなかった僕が、唯一輝けるのが水泳の授業だった。しかも何故か、運動神経抜群好きな科目は体育ですみたいな人間に限って、実はまったくのカナヅチ、というパターンが多い。普段サッカーやバスケなどでイキりちらかしている彼らが、水泳の時は普段の体育の授業を受けているときの僕と同じ憂鬱な表情をしているのが心底愉快だった覚えがある。

水泳に関しては、特に小3〜小6の頃は、わりとガチでやっていた。
通っていたスイミングスクールでは、クロール、平泳ぎ、バタフライ、背泳ぎの4つの泳法を習得したあと、タイムアタックで一定のタイムをクリアすると、選手コースという地区の水泳大会に出場するためのグループに所属することができた。6歳年上の姉も、小学生の頃からこの選手コースに所属しており、同じスイミングスクールに通い始めた僕は当然のように同じところを目指すことに。

小学校のクラスメイトたちも、約半数がスイミングを習っていたが、多くが4つの泳法をマスターした段階で他のスポーツにシフトしていき辞めていく者が多かった。なので、小3で無事選手コースに上がり、中学生や高校生たちと一緒に練習に参加するようになった僕のような子どもは、かなり少なかった。

しかし、選手コースに上がってからの日々は決して楽ではなかった。週6、2時間の日々の練習に加え、夏休みと冬休みの長期休暇は1日水泳漬けの合宿が約1週間続く。ただ姉も同じようにしているからという理由だけで選手コースに入った僕は、日々のつらい練習が本当に憂鬱だった。ちょうどこの頃つけ始めるようになった日記を読み返すと、「今日の練習がキツすぎた」とか「コーチに怒られて嫌だった」とか赤裸々な心情が綴られていて、練習の過酷さを物語っている。

選手コースに入りたての頃、1度親と大喧嘩をしたことがある。平日は夜7時〜9時の練習だったため、学校から帰り宿題等を済ませ、夜6時頃に夕食をとってからスイミングに向かうといったスケジュールだった。

この頃の僕の毎日はスイミングが中心に回っており、学校で何があったかとかどう過ごしたとかという記憶がほとんどない。放課後に友達と遊んだり、ゲームをしたりという子どもならではの時間の過ごし方もほとんど出来なかったと思う。しかしこれに関しては、学校の友達と遊ぶより、家に帰って親と喋ったりテレビを観るのが好きなタイプだったので、たいしたストレスではなかった。

問題はそのテレビだ。木曜夜7時からのポケモンと、金曜夜7時からのドラえもん。1週間の中で、僕がどうしても死守したい楽しみの時間だったのだ。しかし、この夜7時という時間が、スイミングの開始時間と完全に被っている。
通い始めの約3ヶ月、僕は腹が痛いだの頭が痛いだのなにかと理由をつけ、木曜と金曜はスイミングを遅刻、もしくは欠席していた。嬉々としてポケモンやドラえもんを観ている僕に、親はあきらかに仮病であることを悟っていただろうが、「そのうちポケモンもドラえもんも自動的に卒業するだろう」と慢心していたのか、あまりうるさくはいられなかった。

ところが、いつまで経ってもポケモンとドラえもんを卒業する気配がない僕に対して、母がついにキレた。「あんた、小3にもなっていつまでもアニメばっか観てるんじゃないよ!なんのために選手コースに入ったのか分かんないでしょ!月謝だって今までの倍かかってんだよ!もうポケモンのためにスイミングサボるのは許さないよ!」

小3なんて1番アニメを楽しみに生きている年齢だろう。だいたい普段から宿題だってきちんとやって学校でも問題行動などを起こしたことのない僕の唯一の楽しみを奪うというのか。今ならいくらでも反論が浮かぶが、当時大人から怒られるとすぐメソメソして反抗する反骨心も強さもなかった僕は、しぶしぶではあったがそれ以降めったな理由では休むことなく、真面目にスイミングに通うようになった。

今思うと、本当にあの当時の自分はよく頑張っていたなぁと心の底から思う。もともと闘争心も向上心もなく、運動をはじめとする体が疲れる行為全般を好まなかった僕が、弱音を吐きながらも約4年間水泳漬けの毎日を送っていたのだ。今の屁理屈や理論武装で嫌な環境から逃げ出す手段を覚えた僕ならば、絶対続けられていないだろう。

それでも、通い続けられていたのは嫌なことばかりではなかったからだ。小3で選手コースに入った当初、僕はほとんど最年少だった。身体も1番小さく、練習についていくのが精一杯。そんな中、小5、小6や中学生のお兄さんお姉さんたちが非常に可愛がってくれて、とても嬉しかった記憶がある。

今でも忘れられないのが、小5の時に参加した、中学生以下のヤングチームしか参加出来なかった三重・鈴鹿での大会。参加者も高校生の大人チームがいないため人数が少なく、普段の大会では親の送り迎えが一般的だったが、コーチたちの車2、3台で乗り合わせで行った。豊橋から鈴鹿までの所要時間は約2時間。小学生にとってはちょっとした旅行だ。

車の中では、運転の荒いコーチの、今だったら煽り運転一歩手前の危険運転に、みんなでキャアキャア言いながら喜んだ。会場であるプールは今まで行った中でも過去1立派で大きく、競泳プールの横に飛び込み競技用の5mほどあるプールがあり、競技以外の時間に、みんなでどれだけ深く潜れるか、潜りっこをした。本来はウォーミングアップやコンディションを整えるための待ち時間に、このようなことをした記憶しかない僕の競技に対する姿勢は、まあ理解してもらえるだろう。

帰りは夜ご飯がてら、刈谷のハイウェイオアシスに寄った。ここには、ランドマークにもなっている大きな観覧車があるんだけど、やや高所恐怖症気味だった僕のことを面白がって、観覧車の中をわざとぐらぐら揺らすお兄さんたち。やめてやめて!とか言いながら、すごい楽しかった。

学校以外でのコミュニティってすごく大切だったなぁって振り返ってみて思う。校内やクラス内でのヒエラルキーを決める要素から解き放たれて、同じ活動(水泳)があったからこそ、仲良くなれた関係だった。

僕が慕っていたお兄さん達は、中学に上がると背も伸び、筋肉質になって、声もグッと低くなった。中学になると、学区の外にも自転車で出ることができるらしい。映画館とか、カラオケとかゲーセンとかにも仲間と行ったり。そんなすべてに、僕は全部全部憧れた。

今振り返ると、この頃にゲイとしての芽生えは確実にあった。ガッシリとした中2のHくんの着替えている姿を横目で見たり。中高生たちのお兄さんたちがリレーに出場し、奮闘している姿を見ている僕は、ただの憧れの感情じゃなかったけれど、それを表現する言葉も、同性に対する気持ちの概念も知らなかった。

「じんすけくん来年から中学に上がってくるのめっちゃ楽しみだわ〜!」1番仲良くしてくれていた、1つ年上のRくんは、ちょっとヤンチャな男の子で、小学校のとき恐れられていた女ヤンキーともわりと仲が良かった。僕はRくんが待ってくれてるらしい地元の中学に馴染める気が全然しなくて、遠方の中学に受験し、そこに行くことになっていた。通学時間のこともあるし、スイミングを続けるのも難しい。可愛がってくれたお兄さんたちも、高校受験などでどんどんスイミングを卒業していっている。

結局僕も、小学校の卒業と同時に、スイミングを辞めた。遠方通学を理由に、親がガラケーを買ってくれたので、スイミングを辞める直前、Rくんとはメアドを交換したけれど、その後連絡することはなかった。Rくんとは、数年後地元のアピタかどっかでバッタリ会ったきり。「じんすけくん超懐かしいんだけど!」というRくんは着実に地元ヤンキーに進化を遂げていて、僕はスイミングという環境で彼と仲良くなれた過去の奇跡を改めて尊く思った。

僕の憧れのお兄さんたち、みんな元気にしてるかな。僕も今地元に戻ってきてるから、どこかでバッタリ会ってもおかしくないのだろうけど、お互い出会ったところで気づくのだろうか。年がら年中スイミングは行ってたから、夏の思い出ってわけじゃないんだけど、やっぱり夏、プールと結びついて、僕はあの頃のことを時々思い出す。

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