幻のアフリカ納豆を追え!アナザーストーリー
このお話は、高野秀行著「幻のアフリカ納豆を追え!そして現れたサピエンス納豆」新潮社2020年8月27日発売 の第一章を読んでから読まれると、何倍も楽しむことができます。
1.40年ぶりの秀ちゃん
「ひゃあ、い、行きたい~」
それは私がナイジェリアから久々に秀(ひで)ちゃんに送ったメッセージに対する返答だった。私はこの好反応にホッとして大きく深呼吸をした。
「ダワダワの製造農家取材、9月の下旬に行ってきま~す。西アフリカ共通のうま味調味料ということがわかって、前から行こうと思ってたので。確かボコ・ハラムとかの活動エリアに近づくので、3人のAK47を持ったセキュリティーと行きます。場所はKANOというところ。一緒にどう?笑」 そんな軽めなメッセージを送ったのは2016年8月28日のことだった。
私は、2015年7月からナイジェリアのラゴスに赴任している。味の素社は1991年に現地法人「ウェスト・アフリカン・シーズニング社(WASCO社)を設立、ブラジルのグループ会社で製造したグルタミン酸ナトリウム(商品名「AJI-NO-MOTO」以下「アジノモト」)をナイジェリアにバルク(1t入の大容量コンテナバック)で輸入し、ナイジェリアのラゴスの工場で小容量に包装して販売を開始した。特に1998年からの法人長であった石井正氏が、前任地のペルーで成功したディストリビューターを使わない自社社員による現金直売方式を初めたこと、またナイジェリアの最小通貨である5ナイラ品(1ナイラ=約1円:2007年)で誰でも買いやすい価格戦略を導入したことで爆発的に成長し、2006年にはナイジェリア36州+連邦首都地区(首都のアブジャ)のほぼ全州に支店を設立、巨大な販売部隊網が出来上がった。販売部隊は3人1チームとなり、毎朝製品アジノモトをハイエースのようなバンに満載、部隊は市場の小売店一件一件に担いでまわり、その場で販売代金を回収してくるのである。
現金直売方式の最大のメリットは販売代金がその場で回収できることである。先進国であれば支払サイトというのがあり、当月末締め翌月末払いもしくは翌々月末払い等が一般的ではあるが、電気のインフラも脆弱なナイジェリアでは、支払い遅延が当たり前のように起きうるのだ。そんな中、星の数ほどの小売店への手書きの販売伝票から、本当に翌月に入金されたのか否かを全てアナログで会社側で把握することは相当に労力がかかることで、未払いの小売店への再請求などを行うことを考えると、その場での現金直売が非常に効率的なのである。
ナイジェリアは2020年現在、人口は約2億人、世界第7位の人口で、総GDPではアフリカ54か国中トップ、約250の民族と言語が存在する多民族国家である。したがって、小学校で初めて触れる公用語でもある英語を使わないとナイジェリア人同士でも会話をすることができないため、ほぼ全国民が、ネイティブな現地語に英語を加えた最低2言語を使えるバイリンガルなのである。宗教はキリスト教とイスラム教が中心で、ざっくりと北部のイスラム教と南部のキリスト教の人口はほぼ同数である。ここで一つ興味深いことは、WASCO社は国内全域に販売網を持ちながら、その販売の大半はイスラム教の北部エリアなのだ。歴史的に味の素社は1980年代にトーゴのロメに西アフリカビジネスの拠点としてアフリカ初の事業所を立ち上げ、周辺国への販売を開始した。当時は現金直売方式ではなかったが、ディストリビューターによりニジェールに商品は流れ、ニジェール南部の国境からナイジェリアの北部に商品は流れてきた。これは水が上流から下流に流れるように、うま味を求める人々に導かれていった必然だったのかもしれない。
特に積極的に営業活動をしなくても、意図せず商品が勝手に流れていってしまうことがある。例えば、ノザキのコンビーフでおなじみの川商フーズが「GEISHA」というブランドで欧米に輸出していたサバのトマト煮の缶詰が、1950年代にロンドン経由でガーナに紹介され、西アフリカの英語圏であるガーナとナイジェリアの2か国で急速に広まり、両国では国民食といえるほどのヒット商品になってしまったのである。川商フーズがガーナに事業所を設立したのは、大きく遅れて2011年と、つい最近のことであった。味の素社もなぜアジノモトが、ニジェールやナイジェリア北部に売れていくのか、1980年代当時ははっきりとした理由がわからなかったのだが、そのような背景があり、今もナイジェリア北部で強い商品となっている。
一方、世界中の味の素グループが現地向けの多くの商品を販売しているのに対し、WASCOの商品は1991年から20年以上商品アジノモト一本であったため、将来の多角化を見据えた現地による新製品開発を期待して、初のR&D(食品研究開発)担当として送り込まれることになったのが2015年7月の赴任の背景だ。高校時代にいつかは食でアフリカに貢献したいとの夢があり農学部を専攻、そこから30年以上かかってようやくアフリカで働くチャンスが巡ってきたのだ。
さて、ゼロからの商品開発、つまりそれは開発担当者を採用し、実験室を作るところから始まった。まずは自分の右腕となる優秀な現地社員が必要であった。アジノモトの包装工場で製造・工務で最もブレインとなっている謙虚でかつ向上心の高い32歳の男性社員を、内部異動でメンバーにした。彼は高卒であったが、もっと知見を深めたいと会社勤務をしながら大学にも通っていた頑張り屋だ。彼の名前はアナニ・ハリソン。こうして2016年1月に2人だけのR&D部がスタートした。最初の仕事は実験室作りだ。彼とともに実験室のレイアウトを決めて、どんな実験機器が必要なのかをリストアップし、どうにか形になってきたのが5月頃だ。実験台など一つをとっても、ナイジェリアでは既製品などなく、全て設計図を書き材料を指定して作ってもらうため時間がかかるのだ。食を開発する中でもう一つ大事なことがある。それは女性の視点だ。やはりキッチンで何が起こっているのか、レストランや家庭のキッチンの調査をする上でも調査対象はほとんどが女性であり、またイスラム教エリアでは外部の男性が家庭のキッチンに入ることはありえないので、どうしても女性のメンバーが必要だった。そこで外部から採用したのが微生物分析を専門とするクリスチャーナだ。彼女はお金持ちのお嬢さんではあったが、親から離れて独立して一人暮らしをしており、金持ちのボンボンでありげな、「お金で大学を卒業しました。だから何か?」的なオーラがなく謙虚さを持ち合わせていることが採用の決め手となった。
まずは会社まわりのレストランを連日朝の仕込みから観察させてもらい、ナイジェリアの食文化と味の決め手となるだしやうま味の由来とその組み合わせを徹底的に調査する中、
レストランの調理場はだいたいこんな感じ
ふと手にした本が2016年に初版発行となった秀ちゃんの「謎のアジア納豆―そして帰ってきた〈日本納豆〉」だった。秀ちゃんの納豆辺境セオリーによれば、海に近いエリアは魚醤など身近にうま味を作れるのに対し、ミャンマー山間部など素材が豊富ではないエリアでは大豆を納豆菌で発酵させて自らうま味を作っていると説明しているが、どうやらナイジェリアも非常に似た状況なのである。会社のあるラゴスは、象牙海岸・奴隷海岸とも呼ばれるギニア湾岸の大西洋に面しており、海産物が豊富。特にラグーンで獲れた10cm程度の小魚の薫製(スモークフィッシュという)を少量の湯で煮詰めた煮汁をベースにし、そこにメインの具材を入れて煮込んだ後、1〜2cmの乾燥小海老(クレーフィッシュという)を粉状に粉砕したものをたっぷり使う料理が多く、これが絶妙なうま味を出しているのだ。ある意味アジノモトを使わなくても十分なうま味が出せるということだ。それに対して北部はサハラ砂漠の南限に近いサヘルエリアで、海産原料は豊富ではない。つまりうま味が足りないのだ。もちろん鶏やヤギを煮込んでその煮汁を使うなどすれば、うま味は取れるであろうが、鶏やヤギは祝い事などの特別な日のメニューであり、日常の食事への登場頻度は極端に低い。そこで北部の調理調査で必ず素材として登場する「ダワダワ」という謎の物体に注目していたところであった。これが秀ちゃんのいう自ら現地の農産物でうま味を作るという部分に重なった。
「ダワダワ」って何なの?ラゴスの社員に聞いてみると、ローカストビーンズという豆を発酵させて作っている情報以上のものが全く取れず、どうやって作っているのかは誰も見たことも聞いたこともないのだ。ここでWASCOの全国販売網は威力を発揮する。早速ナイジェリア人営業部長のところに行き、ダワダワ作っている村・人を知らないか、国内全営業マンに一斉に聞いてもらった。するとなんと翌日には、小さな村でダワダワを作っている様子を携帯のビデオで撮った映像が手元に届いたのだ。「これはすごい!」私は興奮して営業部長に、ダワダワを作る工程の見学をお願いできないか聞いてみると、そこはラゴスから北に800kmの大都市カノ支店の営業ドライバーの自宅であり、自宅の庭で家族で作っているという。イスラム教ではあるが社員である主人が許可するので、もちろん見学は大歓迎とのこと。
「直ちに見学に行かなくては!」
居ても立っても居られなくなり、R&Dメンバー3人でのカノ出張の計画を立て始めた時に、ふと思い出したのは秀ちゃんのことだった。「謎のアジア納豆」のエピローグでアフリカにも納豆がありそうで、それを調べたいようなことが書いてあったな?しかしまあナイジェリアまで来るわけないだろう。思えば、ペルーに赴任していた2005年4月に陸の孤島アマゾンジャングル内の大都市イキトスから更に60km奥のアマゾン川の支流を一人で訪問し、裸族ヤグワス族ですら物々交換で我々の商品「アジノモト」を使っていた事実を突き止めた成果もあった。そのアマゾンの食文化調査後に、秀ちゃんのペルーを舞台にしたアマゾン川の源流を探し求める冒険記「アマゾンの船旅(地球の歩き方・紀行ガイド)」 (1991年:後に2003年に「巨流アマゾンを遡れ」として文庫本化)を読む機会があり、久々に話をしてみようとペルーから秀ちゃんの八王子の実家に電話し、お母さん経由で連絡先を聞いたことがあったのだ。早速秀ちゃんの自宅の固定電話に電話をしてみたが、不在だったのか留守電になってしまったので、折り返してもらえるようこちらの連絡先をメッセージに残した。しかし待てど暮らせど折り返しの連絡は無く、辺境作家として日本の第一人者となった秀ちゃんにとっては、小学校の幼なじみの私など今や足手まといの存在なのだろうかといじけたりしていたのだ。というのも私がやっていることが、疎遠となった初恋の恋人に今更ながらよりを戻そうとする姿に重なり、連絡するのに若干躊躇しながら、また、その反応に怖さもあって、3分くらい熟考して作った文面がちょっとおどけた冒頭のナイジェリアへの招待メッセージだったのだ。もちろん返事が来ることはあまり期待していなかった。なぜなら、2013年8月に「来月アジスアベバ(注:エチオピア国の首都)で1日フリーの時間ができる予定で、マルカートという東アフリカ最大のマーケットに行きたいんだけど前に秀ちゃんが使ったガイドさんを紹介してくれる?」とメッセンジャーで送ったら、11ヶ月後の翌年7月に「うーん、いいガイドがいたけど、6年前のことで連絡先が見つからない。。すんません。」と返事が来る、そんな具合だからだ。しかし今回自分の商品開発において、秀ちゃんのアジア納豆の活きた知見は不可欠だとの思いが強く、メッセージとともにカノ支店から送られてきたビデオも送ってみたら、パキスタンから帰ってきた直後にもかかわらずマッハで返事が返ってきた。
早速、メッセンジャーの音声機能で呼び出すも、全く反応しない。どうも秀ちゃんはパソコンや携帯などIT系にはめっぽう弱いらしく、メッセンジャーの呼び出しも受けることができないのだ。しようがないので、10年前に八王子のお母さんから聞いた、秀ちゃんの自宅に電話をしてみた。さすがにナイジェリアから日本への電話代は高いので、Skypeというソフトで一般電話に電話をかけられるSkype Outというサービスを使ってみた。これなら2円/分位でかけられるのでありがたい。実は声を聞くのも40年ぶりなのだ。電話番号をクリックする手が少し震える。
「あーもしもし?健ちゃん?」
パソコンのスピーカーから聞こえてきたその声は、声変わりした優しそうなおじさんの声だった。
「ヒデちゃん?久しぶりだねー、声がわりしたんだねー。(←何を言ってるんだ俺!)」
「健ちゃんだって声変わってんじゃん!(笑)」
電話をかける前、辺境作家高野秀行について悩んだことは一瞬で頭から消え去り、電話の相手は40年前の秀ちゃんに戻っていた。「最後に会ったのっていつだっけ?すぐそばに住んでるのに、なんで同じ中学じゃなかったんだっけ?」 そんな昔話をしていると、声以外はまるで違和感なく40年が埋まっていく感じだ。実をいうと15分以上は昔話をしたと思うのだが、夢中すぎたのかその内容の詳細をほとんど覚えていない。でも話していて分かったことは、秀ちゃんは全然几帳面ではなく、言葉を選ばずに書けば、結構ぐうたら人間だということだ。メールやチャットの返事が遅かったのも、その案件が今まさに秀ちゃんの関心から外れていたからなのであって、計算高いわけでも悪気があったわけでもなく、単に彼は天然だったのだ。(高野ファンなら周知の話かもしれない・・)
一方、その電話を境に大きく変わったことがある。それは俺たちのメッセンジャーのチャットのキャッチボールスピードが一気にアップしたことだった。そう、アフリカ納豆の解明に向け俺たちのベクトルが完全に合致した瞬間だった。探検部の先輩であった竹村さんという方をカメラマンとして同行したいとのことで、竹村さんは直近で1ヶ月半後の10月上旬が日程的に可能であるという。最後の関門は、秀ちゃんの奥さんの許認可とのことであったが、これも無事にクリアし、ナイジェリア合同調査が正式決定したのは、最初の私のお誘いメッセージからわずか19時間後のことであった。
さてせっかく日本から西アフリカに行くので1カ国ではもったいないと、ナイジェリアとセットでいく国を考え始めた。秀ちゃんの言う最初の候補地は、マリのトンブクトゥ。ちょっと待て。そこにはサグラダ・ファミリアのモデルとも言われる世界遺産の泥のモスクのもあるし個人的にもとても行ってみたいが、何年か前にフランス軍が空爆したニュースを聞いたことがあるし、今はイスラム過激派に席巻されており超ヤバい。外務省の危険情報によれば危険度MAXのレベル4(退避勧告)の出ている真っ赤なエリアだ。ソマリアを庭にしている秀ちゃんにとっては良くても、さすがにサラリーマンである私には無理だ。味の素社として、外務省のレベル4(退避勧告)エリアへの社員の立ち入りは許可していないので、トンブクトゥに行くには、まず会社に辞表を出してから行かなければならない。(汗)
そこで翌日秀ちゃんにとっておきの切り札を写真付きで送ってみた。
「セネガル行かない?納豆みたいなもの、あるらしいよ。名前は現地のウォロフ語で『ネテトウ』(笑)ホームステイ先も確保したよ〜」
これが秀ちゃんに添付したエサ「NETETOU」写真
このエサに秀ちゃんはまんまと食いついた。秀ちゃんと再び付き合い始めてもう24時間以上が経過、秀ちゃんの琴線とツボはわかってきた。この人は、迷ったら面白そうな方を選ぶのだ。そこでダメ押しでこう付け加えた。
「日本にあるオクラって実は西アフリカが原産で、ナイジェリアではオクロって呼ばれててとてもポピュラーなんだ。オクロがだんだん訛ってオクラになっちゃったんだね〜(注:これは事実です)」 秀ちゃんにとって、
「納豆の語源がアフリカ西の果てのセネガルのネテトウだった。」・・・
こんな好奇心を揺さぶられる仮説はないだろう。加えて外務省の危険情報によればなんとレベルゼロ(注:2016年時点では。2020年現在レベル1(十分に注意して下さい))と、アフリカの中でも群を抜いて安全な国だ。これならサラリーマンの私でも全く問題がなく訪問することができるというもの。
そしてもう一つ大事なポイントがある。日本人(日本パスポート)は2020年現在ビザ無し訪問が可能な国84カ国、入国時にお金を払えばその場で入国ビザを発行もらえるビザ・オン・アライバルの国が35カ国、事前に大使館などに行って時間とお金をかけて入国ビザを取る必要のある国が79カ国ある。つまり日本人は事前準備無しで84+35=119か国に入国することができる国民なのである。(120か国に入国できる国は10カ国、日本は世界11位のパスポートが強い国 www.passportindex.org)しかし、アフリカ大陸では日本のパスポートの優位性は全くと言っていいほどなく、実際に住んでいて日本のパスポートで良かったという場面に遭った試しがない。アフリカ54カ国中、日本人がビザ無し渡航できるのは、わずか10カ国のみ。こと西アフリカにフォーカスすれば16カ国中、ビザ無し渡航できる国はセネガル1カ国のみで、わずかに電子申請できる国もあるものの、これが渡航予定の大きなネックになるのである。つまり渡航まで1ヶ月前の時点でナイジェリア+もう1カ国の入国ビザを取得するというのは、時間的にも黄色信号が灯っており、そう言った意味でもビザの必要のないセネガルが2カ国目となることはありがたいのだ。まだイメージが湧かないかもしれないので、ナイジェリア入国準備を例に書いてみよう。まず、入国ビザとは別に黄熱病の予防注射を摂取している証明書(通称イエローカードという)が必要となる。接種してからの効力にかかる日数を考慮して入国10日前までの接種が必要となるのだが、黄熱病の予防注射をうてる場所は限られ、肝炎や狂犬病等の予防接種とは異なり、例えば関東地方では東京検疫所か横浜検疫所の2箇所のみで接種可能。接種は週に1日だけで事前予約が必須、混んでいれば数週間待たされることも普通であるのだ。そして入国ビザは港区虎ノ門にあるナイジェリア大使館でのみ申請可能、申請に必要な書類として、航空券のEチケット、宿泊ホテルの予約票、ナイジェリア側の身元保証人のレターや、申請本人の英語記載の銀行の残高証明書なども必要となるので、申請書類一式を準備するだけでも結構時間がかかるし、何らかの不備があれば書類は受理されない。現に9月早々に準備を始めた秀ちゃんも一度申請書類の受理を拒否され、ようやく受理されたのは9月23日、そしてナイジェリアビザが貼られたパスポートが秀ちゃんの手元に戻ってきたのは、出発4日前の9月29日とギリギリだったのだ。竹村先輩共々キャンセルが一切できない格安航空券を購入していたので、あれは本当に肝を冷やしたものだ。こういう背景もあり、アフリカ数カ国のビザを日本で事前に取っておくというのは、十分な準備と時間が必要なのである。もし秀ちゃんがグータラじゃなくても、今回加えてマリ国のビザを取得することはほぼ不可能であったであろう。また秀ちゃんのような取材をしてナンボの仕事をしていると、ビザ申請中はパスポートが手元になくなるので、その間海外に行くことはできなくなるのも大きな痛手となるのだ。
一つ余談になるが、まずナイジェリアのビザを取ろうとするならば、基本的に皆さんはまず在日ナイジェリア大使館のホームページで、必要な用件を確認するであろう。
http://www.nigeriaembassy.jp/nigeria_j/visasection/index.html
上記が現時点でのナイジェリア入国ビザに必要な項目やプロセスが書いてあり、「ビザ申請支払方法」をクリックすると、振込先の銀行口座が表示される。しかしこれはダミーなのだ。騙されてはいけない。この情報は2年前までの情報で、昨年頭より大使館窓口での現金払いに変更になっている。この情報を信じて事前にお金を振り込んでしまった人を何人も知っているし、彼らは一切お金を返してもらっていない。更に、窓口でもう一度お金を泣く泣く支払わされている。そう、虎ノ門からすでにナイジェリアが始まっているのだ。そしてナイジェリアに住んでいると、こういうことはあまりにも日常に頻発するので、私自身一切驚かなくなっているのと同時に、こういうトラップを発見することが楽しくなってくるのである。
2. ナイジェリアにやってきた幼なじみ
2016年10月3日(月)、ついにこの日がやってきた。本当に秀ちゃんがラゴスに来るのである。10月1日の独立記念日が土曜日だったため突然振替休日になった3連休最終日、私は朝からワクワクして落ち着きがなかった。フライトレーダー24というアプリでAF146便が定刻でパリを出発したのを確認すると、ラゴス到着予定は定刻の16:40であった。人口約2億人、アフリカ最大の人口を抱えるナイジェリアで最大の人口を要するマンモスシティーがラゴスだ。1991年に丹下健三氏の設計で計画首都アブジャが国土のほぼ中央に置かれるまではラゴスが首都であり、今もラゴスが経済の中心地だ。
人口は約1200万人と推定されているが、2006年を最後に国勢調査が行われていないので正しい人口は誰にもわからない。実態としては人口に応じて国から配賦される国庫助成金を少しでも多くもらいたいために、各州が人口を上乗せしている部分も、本当の人口をわからなくしている。私のこれまでの訪問国は、56カ国、うちアフリカは19カ国。まだ世界の1/3も知らない中での印象だが、訪問したアフリカ18カ国に比べてラゴスがぶっ飛んでいる部分をいくつか挙げてみよう。
① 交通渋滞:よくアジア諸国の大渋滞の映像を見るが、レベルが半端ない。とにかく交通インフラは完全に崩壊している。どんな渋滞の映像でも、右側通行なり左側通行は守っているが、ラゴスではそのモラルがなく、ちょっとでも隙間があれば上り路線・下り路線・歩道・車道関係なく車が突っ込んでくる。結果幹線道路の中央で正面どうしの車が睨み合いとなり、上下線とも完全閉鎖になってしまう。取っ組み合いの喧嘩もあちこちで起こり、警官は空に向けて空砲を撃ちまくる。そういう状態になったらもうお手上げ、3時間4時間1mmも動かなくなってしまう。「渋滞」という単語では表現できないので、「渋滞」の上の単語が欲しいと常々思っている。
② 電気:世界第9位の産油国なのに、電気がない。つまり原油の精製所がわずかしかなく、原油の大半をコートジボアールに送り、精製した石油・重油・ガソリン等を輸入している。この輸出時と輸入時に相変わらず多くのお金が消えている。自国で精製できるようになると輸出入時のポッケに入るうま味がなくなるので、政府は表向きには「自ら精製すべき」と口にするが、本音では積極的に自国精製をやりたがらない。結果、人口1200万人のメガシティで1日に数時間しか電気を流せない。したがって24時間電気が欲しい人は、発電機を買って自家発電をしているが、電気のあるところは発電機の騒音とモクモクと黒煙が上がる排ガスがセットになるのだ。ちなみに、西の隣国ベナン、南東の隣国カメルーンの北西サイドは、24時間電気がある。なぜならナイジェリアが電気を売っているから。自国民に売れば、盗電が多くて電気代を全然回収できないが、隣国はきちんと払ってくれるから自国民より隣国を優先するのである。夜間フライトで、ベナンからナイジェリアに向かうと、あるラインを境に真っ暗になるのがよくわかる。
③ ゴミ:とにかくどこに行ってもゴミだらけである。そもそも街中でゴミ箱を見たことがない。飲んだ後のペットボトル、持ち帰り弁当の容器など、道路に捨てるのがスタンダードで、海に注ぐ川は見えている水面とプラスチックゴミとが半々くらいでどれだけのプラスチックゴミが海に流され続けているのだろうか。路上での男女の立小便はともかく、大便をしている人に遭遇しない日はなく、犬のフンは落ちていないが、人糞は所々にあるので要注意である。
英誌エコノミストの調査部門エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)がまとめた2017年の「世界で最も住みやすい都市」ランキング、140都市中139位! Trace Matrix社による2016年の「汚職による仕事のしやすさランキング」にて199カ国中199位!世界国際フォーラム「世界競争力報告」ワースト3!・・・・
秀ちゃんも辺境国経験豊富だと思ったのだが、流石に世界ワースト1レベルは経験していないと思ったので、ちょっくら驚かせてやろう・・そんないたずら心を胸に秘めて、空港に向かったのだった。最初の洗礼は悪名高いラゴスのムルタラ・ムハマンド国際空港に違いない。なにしろ賄賂の要求がすごい。まず、入国審査で記入する紙を売りつけてくる、入国審査の長い列、係員に賄賂を払うとすっ飛ばして列の最前列に連れて行ってくれる(払わないと列が進まない)、ターンテーブルで荷物を受け取った後、検疫と称してカバンから食品を見つけ出し金品を要求、などなどいずれも初めての日本人は戸惑う連続波状攻撃だ。飛行機は予定通りには着いたが、いろんな洗礼で2時間は出て来れないだろうとよんでいたが、秀ちゃんと竹村先輩は1時間以内であっさり通り抜け、シャバに出てきてしまった。なぜだ?飄々としたたたずまい、黒色のキャップに銀縁のメガネそして無精髭。有名作家なのに全然そのオーラは感じられない。それが40年後のリアル秀ちゃんだった。(このおじさんが秀ちゃんなのか・・昔は可愛かったのに・・)笑顔で「ようこそナイジェリアへ」と握手をしつつ、そんなことを頭の中で考えていた。きっと秀ちゃんも同じように私を見ていたのに違いない。
私の車はハイエースを一回り大きくした真っ白いワンボックスタイプのミニバスだ。ドライバーは勤続20年のベテランドライバーのソロモン。そして助手席には、私服警官のローランド。彼は私専任のボディーガード警官だ。実はラゴス警察は所属警官の3割を民間貸し出しして収入を得ており、ローランドも民間貸し出し専用の警官だ。底抜けに明るく、一方有事の際の戦闘力は実に高い。その後列に秀ちゃんと私が並んで座り、更にその後列に竹村さんが座ってバスは発車した。空港からラゴスの街までは南に約25km、道中ラグーンの上を走る片側4車線で全長11.8kmのサードメインランドブリッジを通る。この橋は1990年にアフリカ最長の橋として開通し、住居エリアの北部と経済エリアの南部を結ぶ一番の動脈となっている。平日の夕方のこの時間は、ほぼ全ての車が帰宅ラッシュで北方面に大渋滞をしているのだが、想定外の代休で車がとても少ない。
「いやーラゴスは道がキレイで最高だねー」
(いかん、ラゴスが勘違いされている・・・そうじゃないんだ。なんとか秀ちゃんが驚く光景を見せないと!!そうだ、ゴミだらけの街を見せよう!あ、一昨日の独立記念日で市内一斉清掃が入り、ゴミの山がなくなっている!!そうじゃないんだ、そうじゃないんだ!)
秀ちゃんは更に畳み掛ける「ナイジェリア、えらくきちんとしているね。話と違うじゃん」 私は返す言葉がなくなって「秀ちゃんはまだいいところしか見てないんだって」と、小学生のような返答しかできず、追い込まれていった。
夕食は、もちろんナイジェリア料理を紹介したいところだったが、屋台の閉まった夜の店舗型ナイジェリアンレストランは味がイマイチのところが多く、美味しい屋台飯は翌日にまわし、やむなく自宅のそばの中華料理の店となった。
秀ちゃんとラゴスで一緒に飯を食っている。それが夢のようだった。
なにしろ私たちは40年ぶり会ったのだ。最後に会ったのは11歳の時である。なのに違和感がまるでない。自分は前に出ないで控えめなところ、聞き役に回って話を引き出すのがうまいところ、作家として有名なはずなのになんかシャイなところなど、少年時の面影が十分に残っていた。私が5年生、秀ちゃんが4年生の時、両家族で志賀高原のサンバレースキー場に泊まりで行った時、秀ちゃんの探究好きの片鱗を見たことが突然フラッシュバックした。それは1日スキーを楽しんだ後の温泉脱衣場での出来事だった。ちょうど私はおちんちんに毛が生え出した時期で、恥ずかしくてどうしても隠したかったのだ。まだ生え始めだったので、右手で押さえると毛の生え際がちょうど右手の甲で隠れていい感じに隠すことができたのだ。一方まだツルツルだった秀ちゃんは、常に右手で隠している私の股間を見たくてたまらなかったようで、常に私の右手は秀ちゃんの視線を浴びていた。そうとなれば絶対に見せるもんか!これは男と男の勝負である。秀ちゃんはこれみよがしに、ツルツルのおちんちんをぶらぶらさせながら私をチラ見して歩いている。(健ちゃんもこういう風に見せてよ)それは、秀ちゃんの無言のメッセージだった。問題は洗い場だ。タオルで体を洗う時はどうしても右手を股間から離す瞬間が訪れる。親父を挟んでその向こうに秀ちゃんが座っている。よしこれなら大丈夫だと頭にシャンプーをかけて洗い始めた瞬間、秀ちゃんがいなくなっているのに気がついた。秀ちゃんは私の背後から鏡を使って私のおちんちんを観察していたのだ。しかし鏡は湯気で曇っていて、ほとんど見ることができなかった。秀ちゃんを見ると、もう目は血走っていて他のことは考えられず、私のおちんちんを如何に見るかにだけ集中しており、見たことのない真剣な表情をしていた。「秀行!ほらこっちきて体洗え!」どうやらそんなお父さんの声も聞こえていない。風呂を上がって脱衣場でバスタオルで体を拭いている時だった。秀ちゃんの存在を十分に背中で意識しながら体を拭いていると、後ろから秀ちゃんが近づいてきた。私は常にその気配を意識し、その気配にお尻を向け、頭をバスタオルで拭いていた。その時である。秀ちゃんは禁じ手のジャンプをして、私の腰横30cmに飛んで、ガバッと首を回して、私のおちんちんを覗き込んできた。もう完全に捨て身である。その瞬間「秀行!!!!」とお父さんの大きい声が聞こえた。秀ちゃんは、私の毛の生えたおちんちんを見ることができたのか?そしてどう思ったのか?これは40年間ずっと気になっていたことだ。いつか聞いてみたいと思うが、この異常ともいえる探究心こそが今の謎解き辺境作家の原点なのだと確信した。
1977年3月30日 志賀高原にて
春巻や魚介炒めなどをつまみながら会話を重ねると、私たちには不思議なほど共通点が多いことがわかった。人がやっていないことをやりたいとか、先進国のおしゃれなカフェみたいな場所が苦手だとか、徹底した現場主義だが、裏を返せば抽象的な理論に頭がついていかないとか・・・話をしていて違和感がまるでない。
子供のときは二人とも(当たり前だが)辺境思考など全くない少年だった。秀ちゃんはどちらかというと自己主張をしない図書室の好きな子供だったが、学研の雑誌「ムー」とかには異常な興味をもっていたので「ふつう」ではなかっただろうけど、格別、冒険好きであるとか、世界を旅したいとか言っていた記憶はない。
でもなぜか二人の元少年は世界各地を回った果てに40年後、アフリカで再会し、一緒に納豆の正体を突き止めるため、イスラム過激派の多いナイジェリア北部へ向かうわけである。
3.納豆村での共同調査
翌朝カノへの国内移動は、アズマン航空という2014年に操業を開始したカノ拠点の小さなエアラインを選んだ。ボーイング737を中心に20年以上の中古機6機を運用している会社である。実はナイジェリア最大の航空会社はアリック航空といい、何の事前情報もなければ無意識に国内最大ネットワークをもつこの会社を選ぶのだが、私は個人的に世界最低の航空会社だと思っている。2016年当時、国内線だけではなくニューヨーク・ロンドン・ヨハネスブルクの国際線があったのだが、機内の映画のサービスはないのは当然として、食事も出ないことも多々あり、トリップアドバイザーの口コミでは最低の星一つがダントツだ。印象的な出来事を一点紹介すると、ロンドンに飛んだはいいがヒースロー空港の駐機料を払わないために離陸を差し止められ、なんと「ラゴスに帰ったらお金を返すからお金を貸してください」と、乗客に泣きつき、集めたお金で駐機料を支払って離陸したのだ。ラゴスに着いてお金を返すと思いきや、それは何日か有効なアリック航空のクーポン券で、お金を貸した乗客の怒りをかったことは想像に難くない。とにかく慢性的な資金不足で十分な燃料購入ができていないのだ。その他休便になったルートのチケットを公式ページで騙して乗客に売って金儲けをする作戦もあり、私はこれにまんまと引っかかってしまったことがあった。公式ページでチケットを購入し、そのEチケットをもって空港に行ったら、「そんな便は3ヶ月前から飛んでいねーよ!」とアリック職員に鼻で笑われた。当然、お金は返してもらえない。つまり引っかかった方がアホだったのだ。機材も最悪、サービスも最悪なアリック航空。・・と怒りをぶちまけ始めると終わらないので、この辺にしておこう。
話はもどり、午前10時発のカノ行きアズマン航空に乗るために私たち5人はラゴスの国内線空港で待ち合わせをした。私、秀ちゃん、竹村さんのほか、前述の私の部下2名(アナニ・クリスチャーナ)である。私たち日本人3人が空港に着いた時には、アナニとクリスチャーナはすでに空港に着いていたが、問題はクリスチャーナの服装だった。当然普段のナイジェリア民族衣装で来るのかと思いきや、これからニューヨークに行くのかというようなド派手な衣装にハイヒール、今まで見たこともない大きなサングラス、どうやら持っている中で最も高級な衣装のようだ。「村に行くのだから村の人に親しまれやすく、かつ動きやすい服装をしてこい」と言わなかった私の大失敗だ。彼女は入社初の、しかも人生初の飛行機での出張に、最大限のお洒落をしてきたのだ。ちなみに私は西アフリカ出張する際は必ず現地服を着るようにしている。決してアフリカ民族衣装を着ない中国人が多い中、民族衣装をきている東洋人が物珍しく、心理的な壁の高さが下がるのか、声かけが多くなり私にとっても入手できる情報量が一気に増えるからだ。日本で黒人が着物を着て電車に乗ってきたら、きっと少しばかりの日本語が話せて日本大好きな黒人なんだろうと推定してしまうのの逆バージョンだ。今回私は鮮やかな水色の北部ハウサ民族衣装を着てきたのだが、なんか秀ちゃんの視線が冷たい。。。秀ちゃんも現地に溶け込むために現地衣装を大切にすると思っていたのだが、どうやらそこは私とは違うようだ。
私たち5人を乗せた中古のボーイング737は、60〜70%くらいの乗車率だった。なぜすぐわかるかというと、前からギッチリ乗客を詰めて行き、乗客のいない機体の後部は完全空席だからわかりやすいのだ。乗客を一箇所にまとめた方が飲み物のサーブなどがしやすいという完全に乗務員側の都合で、乗客は3人席に押し込められるのが半ばこちらの「あるある」だ。撮影のために竹村さんが進行方向右側の窓席に、狭い真ん中に秀ちゃん、通路側に私、そして通路を挟んでアナニとクリスチャーナが座り5人が横一列になっていたのだが、生まれて初めての飛行機で浮き足立っている観光客クリスチャーナは、いつの間にか左隣の窓際席の男性と交渉して窓際をGET、「旅行」を楽しんでいた。
飛行機は約1時間のフライト、秀ちゃんからアジア納豆の写真を見せてもらったりしているうちにあっという間にカノに到着、カノへのフライトは4社ある中でその日唯一時間通りに飛んだアズマン航空を選んだ私のファインプレーを褒めてくれる人は誰もいなかった。
―これがサヘルか・・・・。
この埃っぽくて乾燥しているカノのマラム・アミヌ・カノ国際空港に到着しタラップを降りるたびに、いつも頭の中にこのフレーズが流れ、今から約1000年前に栄えたカノ王国に思いを馳せて、サハラ砂漠方面を遠い目で見てしまう。
そんな鑑賞に浸っている間もなく、弊社のカノ支店スタッフと対面だ。WASCOカノ支店は1994年11月に設立された総勢28名の国内最大支店である。
敬虔なイスラム教徒であり1日5回の礼拝で額の中央が黒くなっているイブラヒム支店長が直々に我々を迎えにきてくれた。早速支店事務所に移動して、秀ちゃんと竹村さんを紹介することにした。
「おはよう!今日は特別なゲストを連れてきたので紹介したいと思います。ナイジェリア料理の一番のエッセンス『ダダワ』知ってますよね?実はその『ダダワ』は日本にも他のアジアにもあるんです。彼はそのスペシャリストなんです」 ダダワまでは皆首を縦に振って良かったが、アジアとかスペシャリストとかのワードが出たあたりから理解がついてきていない表情をしていたので切り口を変えてみた。「あとね、彼は『ソマリア』のスペシャリストなの!みんなソマリアって知ってる?海賊がたくさんいる国。彼は海賊の友達がたくさんいるんだ」 同じアフリカ大陸とはいえ、ナイジェリア人にとって全く意識したことも考えたこともないソマリア国の話を持ち出し、皆を混乱させてしまったので、その空気を変えてもらおうと百戦錬磨であろう秀ちゃんにボレーパスをしたら、「そう、この人みたいな」 と、チェストパスで戻してきて、微妙な空気のまま挨拶終了となった。むう。秀ちゃん、場数を踏んでいる割には、意外と口下手だ。ていうか、初対面の人に対して想像以上にシャイだ。
ここで合流したのがAK 47を携えた3人のラゴスの護衛警官だ。彼らは遠く1000km離れたラゴスから2日間かけてここカノまで来てくれている。実はこの護衛警官はWASCO社専用警官、つまりラゴス州立警察からの民間貸出警官なのだ。
秀ちゃんとの写真は撮らなかったのでイメージ写真
ナイジェリアの地方公務員である警察の約3割は民間に貸し出され、警察の大きな収入源となっている。そしてAK47というのは、1949年にソビエト連邦で開発された自動小銃のことで、設計者の名前から「カラシニコフ」と言われることもある。タリバンやイスラム国はもちろん今でも世界中で約1億挺が現役で使われている誰もがニュースで目にしたことのあるあの自動小銃で、各警官が一挺を携えている。AK47を担った傭兵スタイルの3名の黒人護衛警官に囲まれるとなかなか壮観であり、多くの日本からの来客は武装警官との記念撮影をしたがるのだが、ソマリア慣れしている秀ちゃんは大した関心を示さず、頭の中は未知の納豆との出会いの期待と妄想でいっぱいのようであった。
WASCOカノ支店から東に約20分ほど車を走らせ、そこから砂に近い土の道に入り、約5分、そこがダンクワリというカノ支店セールスドライバーのアミヌさんファミリーの村だ。
「私たちが到着するまで、決して何もしないで」と言っていたにも関わらず、すでに作業は始まっていたので、慌てて私たちも作業の輪に加わった。自分自身こういう調査は慣れていて自分の調査ペースがある。現実問題私は技術側の会社のトップであり取締役という立場、ドライバーであるアミヌさんファミリーにとって私は相当に会社の偉い人なので、ご婦人方はなにか粗相をしてしまったらと、相当に気を遣って接してくる。そこで、一番大事なことは皆の緊張を解いて、普段通りに動いてもらうことだ。そこに自分なりのセオリーがあるのだが、もしかして秀ちゃんにそのペースを乱されたらどうしようか・・などと、5mmくらいは心配していた。しかしその心配は皆無だった。10分もすれば打ち合わせをしていないのに、私と秀ちゃん、竹村さんの役割分担が出来上がった。楽しい雰囲気づくりの私、工程の詳細記録をする秀ちゃん、一連の映像記録を作る竹村先輩。ここにパルキア豆、大豆同時の納豆づくり、そしてそこに加えて驚きの豆腐作りが並列で始まるのだが、そんな中、秀ちゃんは中盤にはハウサ語を話し始めて舌を巻いた。なんなんなんだ、この言語吸収力は?!前世は九官鳥だったんじゃないだろうか?なぜ何の関連もない音の羅列のハウサ語の単語を数回聞いただけで覚えていってしまうのだろう?住んでいる私の方がはるかに多くのハウサ語を聞く機会があり、実際に耳にしているのに、まだ挨拶程度しか覚えられない。ありえない。秀ちゃんは変態である。
さて3日目にパルキア納豆が完成した。まさにネバネバの納豆である。秀ちゃん、竹村さんと顔を見合わせて互いに「納豆だよ」以外の言葉が出てこない。まず納豆菌をいれる工程が全くないのに、納豆ができていることに驚きだ。
「ミャンマーでも葉っぱも納豆菌も入れずに納豆ができているケースも確認しているので、不思議なことじゃない」と秀ちゃんは衝撃なことを口にした。その表情は科学者のようで、目力がある。銀縁のメガネを光らせ秀ちゃんは続けた。「納豆菌はとても強いんだよ。この人たち、終わった後器材を洗ったりしないでしょ?発酵させている半分に割ったヒョウタンのボウルとか、発酵させている物置、発酵中にヒョウタンにかぶせる覆いなんかにも住みついていて、そこから納豆菌が入っているんだよ。」秀ちゃんが、高野教授に見えてきた。ダテにアジア納豆の本を書いていない。もし私が一人でこの調査に来ていたら、どこから納豆菌が来ているのかを調べるのに一苦労したところだった。そういう点では、今回高野教授と一緒に調査している意味は大きい。ちなみに、ここで高野先生と書かないのは、私は秀ちゃんのお父さんを「高野先生」と呼んでいるからだ。話は脱線するが、僕らの父親はかなり長い期間同じ高校の先生で、親友だった。親父は数学、秀ちゃんのお父さんは英語の先生で、今でも秀ちゃんは私の他界した親父を「小林先生」と呼び、私は秀ちゃんのお元気なお父様を「高野先生」と呼んでいるので、「高野先生」と書くと、秀ちゃんのお父さんになってしまうからだ。
こうして48時間発酵させて完成した納豆は、ここで終わりではない。炎天下のカノでは、このままでは発酵がさらに進みアンモニア臭くなってしまうので発酵を止めて保存しやすくする必要があるのだ。これがせんべい状にして乾燥させる理由だ。高野教授はこの光景に異様なほど興奮していた。
「納豆だよ、納豆!」「シャン族と同じだよ!竹村さん、ねぇ!」「これって誰がみても納豆だよ!」「これ見て納豆じゃないっていう日本人はいないよ」誰も聞いていないのに一人で喋りまくっている。
15分前に冷静に分析していた高野教授の姿はそこにはなく、その目はまさに40年前志賀高原の温泉で私のチン毛を見ようと血走っていた目そのものだった。赤いヒジャーブをまとった背の高くてスタイルの良い若い女性(アミヌさんの妹さん)を中心に5人の女性が発酵したパルキア納豆を臼に移して、杵で餅つきのように納豆をペースト状にしていく。これまで各工程をちょっとずつ体験させてもらっていたのだがその順番は、私→秀ちゃんの順だった。ところがこの時ばかりは、興奮を抑えられない秀ちゃんは恒例の順番を無視して臼に近づき、ペースト化作業を体験させてもらっていた。秀ちゃんの興奮は止まらない。「これ見て納豆じゃないっていう日本人はいないよ。」(さっき聞いたよ)「搗いている音が納豆だ!」そうすると、その納豆の匂いに誘われて、大きな銀バエの大軍団が集まってきた。ものすごいハエの量だ。一方秀ちゃんは、まだ「納豆だよ」「ミャンマーと同じだよ」「糸引きの加減が同じなんだよ」「ねぇ!ねぇ!」「健ちゃん健ちゃん!この納豆臭がさ!・・・・」、こっちは初めて見る納豆加工作業に集中したいのだが、秀ちゃんがしつこくてうるさい!うるさいを漢字で書くと「五月蝿い」・・・よく言ったものだ。今は10月だけど。
臼のサイズにより2バッチにわけて餅つき作業(ペースト化作業)を行い、ペーストになった納豆の表面にピーナツ油を塗ると約30分後に作業が終了した。2つのひょうたんの中にこんもりと盛り上がった納豆ペーストはピーナツ油が光り美しい。そこで作業した女性陣とともに記念写真を撮ろうと提案した。最初にアミヌさんの妹さんが臼の横に座り、出来上がった納豆ペーストを見せながら撮影するもバランスがイマイチで、次は作業に関わった女性全員そろってのアングルにトライする。どうも、皆の表情が硬くこわばっている。そこで、大きな声で「スマイル〜」、続けてアミヌさんに「スマイルってハウサ語でなんていうの?」と聞いてみる。
「ダリア〜!!」
全員最高の笑顔の写真を撮ることができた。
この写真こそが、「幻のアフリカ納豆を追え!」の表紙を飾ると信じていたのだが、実際に採用されたのは、なぜか緊張を解く前の全員の笑顔が出る前の写真だった。きっと全員の満面の笑顔の写真は新潮社の担当さんに送っていないのであろう。この辺の詰めの甘さがこそが秀ちゃんなのだ。
3日目のせんべい納豆作りまでが終わり、ハウサの食事に行こうということになった。カノは、ムスリムエリアであるため基本的にお酒を提供する店はない。ラゴスから来た護衛警官も終日の護衛作業で休ませたいと考え、「今日もホテルの食事で済ませよう」と秀ちゃんに提案すると、なんと竹村さん共々ビールを飲みたいと言い出した。「ムスリムエリアでも酒はあるところにはあるんだよ」と、わけわからないことを言い出した時、秀ちゃんが「イスラム飲酒紀行」という妙なタイトルの本を書いていたことを思い出した。ちなみに私は下戸でお酒に興味がないので、その本は未だに買ってもいないし読んでもいないことは秀ちゃんには秘密にしている。秀ちゃんに見つからないように、護衛警官に一人ひとりに1000ナイラ札(ナイジェリアの最高額紙幣 日本円で350円程度)を握らせ、「ごめん!もうちょっと付き合って欲しい」と懇願した。(実際には取締役命令になってしまうので、彼らはどんなに疲れていても「イエッサー!」以外言えないのだが)
実は200万都市のカノはラゴス等カトリックエリアから出張で来る人も多いので、わずか2件だけではあるが、ビールを提供するバーがある。そのうちの一軒、「Villa Atlanta Garden and Lounge」に、私のナイジェリア人部下含め5人で向かうことにした。店内は大きく2箇所に別れている。入って最初の室内エリアは、ナイジェリアンミュージックが爆音でかかっており全く会話ができないので、屋根のない奥の静かなエリアに座ることにした。ナイジェリアでお酒を提供する店は、例外なく音楽が爆音でかかっており会話ができないのでなんとかして欲しい。ボーイに何も言わないとわざわざ大音量スピーカーの前に案内されるので、音の大きさこそがサービスの良さと信じているようだ。しかし音量に限度ってものがある。一方静かなエリアは一切の照明がなく暗黒なので、料理を見ることもできないのが最大の欠点であった。ライターであかりを灯し、メニューから、ナマズの煮付け、鳥の手羽先のハバネロソースなどを注文してみた。約15分後に出てきた料理は真っ暗で全く見えず闇鍋状態・・・そんなことを思っていたら、秀ちゃんと竹村先輩は、バッグから額につけるハチマキのような懐中電灯を取り出した。どうやらこれは早稲田大学探検部の基本動作らしい。アナニとクリスチャーナは、「日本人はすごい!」と驚いていたが、すごいの日本人ではなく探検部だ。後日談を書くと、そのオデコ懐中電灯は実に便利で、その後の私のナイジェリア生活で手放せないグッズになるのだった。
場面は変わり、4日間の調査を終え、私たちは国内線でラゴスに戻るため、再びカノ国際空港の待合室にいた。今回の調査は、大豆・パルキアでの納豆づくりに加えて突然豆腐が出現するエキサイティングな展開で、正直我々WASCOチームだけであれば手に負えなかったであろう。そういう意味では、秀ちゃんと合流して決めもしないのに自然にできた役割分担の中、効率よく調査ができたのはとても助かったし、また互いに各工程の意味をディスカッションできる相手がいたことは本当にありがたく非常に印象に残る調査になった。
再びアズマン航空でラゴスについた時は、すっかりあたりが暗くなっていた。預け荷物をピックアップして、迎えにきている車を探しているまさにその時、滝のようなスコールが降ってきた。ラゴスでは雨季には1日一度は猛烈な雨が降り、道路も完全に川になってしまうのだが、傘を持っている人はほとんどおらず、雨が止むまで雨宿りが基本だ。「こりゃー強烈な雨だなぁ、車に乗るのをちょっと待とうか、秀ちゃん!」そう言って、後ろを振り返ると、なんと秀ちゃんと竹村さんは私が目を離したほんの1分程度の間にカッパ姿になっていた。驚いて目をまん丸にして言葉が出ない私をみる二人の表情は、「ん?何か?どうしたの?」と飄々としている。むう。またしても出た、早稲田大学探検部基本動作!お見事である。
4.そしてセネガルへ
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