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健ちゃん
2021年2月2日 23:37
隠された真実旅が終わって知ったことだが、4月19日ラゴス発の私の列車の出発が4時間遅れたことは、先行車両の脱線事故が原因だったのだ。その列車の除去に時間がかかり4時間遅れたと後で知って😱となった。そして私の乗った列車の翌週の列車でまた事故が起こった。新聞記事によれば牛の大群が線路にいて、そこに列車が突っ込み、先頭車両から5両目までが豪快に横倒しになったのである。Twitterに上がった写真を
2021年2月2日 23:35
エピローグラゴス→カノ間 各駅停車の旅は残り223kmを残して断腸の思いでリタイヤとなったが、その分取り返そうと、ルートを考えた。カドゥナ→ラゴスは飛行機に乗ってしまえばすぐに帰れてしまうのだが、それでは面白くない。そこで考えたルートは以下だ。①カドゥナ→アブジャ 2017年7月開通の高速鉄道🚈②アブジャ→空港 2018年9月開通のライトレール🚇③空港→ラゴス 飛行機🛩①②を乗
2021年2月2日 23:34
第7章 決断ラゴス出発から37時間、Kaduna Junction駅のホーム。時間は午前5時過ぎだがあたりはまだ真っ暗だ。満月に照らされる列車と屋根の上の乗客のシルエットが何気に幻想的で美しい。ジャンクションということは、別の路線との分岐点という意味なのだが、その路線は何年も前から休止になっていて、実質分岐駅ではなくなっている。ファーストクラスの半分くらいの乗客はこの駅下車ということで、すでに
2021年2月2日 23:33
第6章 ミナ〜カドゥナジャンクションMinna駅夜22:30。やばい。どうしよう。大の圧力がやってきた。列車の発車まではあと20分くらいか。トイレはない。わずかばかりの列車の灯りで照らされるホームを離れると完全なる闇だ。選択肢は次の4つ ①ホームで野糞る ②列車の反対側の退避線の線路で野糞る。③誰もいない奥の真っ暗な所で野糞る。④気合いで我慢する ③は治安的に危ない。サファリの動物も排泄中は
第5章 モクワ〜ミナここまで23時間かけて全行程の47%。このペースで行くとやはりカノまでは48時間程度かかりそうな勢いだ。ネットやWIKIの33時間という情報はやっぱり嘘だった。やっぱりアフリカ情報は体験しないと真実がわからない。ラゴスから528kmにあるモクワ駅のホームで、もはやお決まりとなってきた駅名ボードとの写真撮影を終える。駅名一覧ボードも2枚目に入って、終着駅カノにむけて再スタート
第4章 イロリン〜ニジェール川〜モクワイロリンを9:50に出発、1時間ほど走ったところで今は使われていないJODOMO駅跡地に停車した。どうやらもう一台のファーストクラスA号車のエアコンが壊れてしまったとのこと。どう見てもメカニックに見えない同乗している専属メカニックの兄ちゃんが、一本の棒を持ってA号車の屋根に登り、ぶっ叩いたり、穴に棒を入れて、エアコンの室外機(?)をザクザク ザクザク突っつい
2021年2月2日 23:32
第3章 イバダン〜イロリン深夜に4箇所ほど停車駅があり、早朝6:27にOffaという駅に着いた(ラゴスから347km 全行程の31%)。この駅では、牽引のディーゼル気動車に燃料を補給するため、1時間以上停車するいう。列車が到着すると、なんと全乗客が歯ブラシに歯磨き粉をつけて降りていった。なんて用意がいいのだ!歯ブラシなど使う機会がないと持ってこなかった私以外、全員が歯を磨いている。ここ3年思い出
第2章 ラゴス〜イバダンちなみに私は、特に鉄ちゃんというわけではない。日本の鉄道などにはさして興味はなく基本的に移動の手段である。ナイジェリアの列車に乗りたい理由は以下に集約される。① 会社のナイジェリア人にも乗った人はおらず、英文ニュースサイトにも全く情報がないので、本当はどうなっているのかという好奇心② 列車に乗る客層の生活や習慣の一部を垣間見たい③ 沿線の景色でナイジェリア人のリアル
2021年2月2日 23:31
第1章 旅の出発はラゴスから2019年4月19日金曜日の朝、どんよりとした空だが雨は降らなそうだ。長旅になることはわかっていたので、家の近くのスーパーで水や多少のお菓子を買い込んで、発車予定時刻2時間前の午前10時にラゴスターミナル駅に到着した。実は一人旅とはいうものの、ナイジェリア国内での私のボディガードである私服警官ローランドも一緒だ。彼は胸板が厚く、精悍な雰囲気を漂わせた30代後半の民間貸し
2021年2月2日 23:30
プロローグ鉄道の国イギリスの植民地であったナイジェリアは、古くから鉄道網が発達、南部のギニア湾沿いに位置するナイジェリア最大の都市ラゴスと北部のナイジェリア第二の都市カノ間は1912年に鉄路で結ばれた。その直線距離は約1000km (東京から直線距離で鹿児島県の種子島に相当) 、それは日露戦争の6年後のことであった(東京ー大阪間は1889年開業)。1960年イギリス独立後の4年後には年間1000万