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「挨拶ができへん人間は建設もできへんで」は因果関係ではない

ツイッタランドではすっかり定着し、memeにもなった真島吾朗氏のこの発言だが、これを命題としてその逆・裏・対偶を出すというネタももはや定番である。一応羅列してみよう。

命題:ある人間が挨拶できないとき、その人間は建設できない
逆:ある人間が建設できないとき、その人間は挨拶できない
裏:ある人間が挨拶できるとき、その人間は建設できる(これは自動字幕のネタ)
対偶:ある人間が建設できるとき、その人間は挨拶できる

簡単のため、ここでは真島氏の発言を対偶の形「ある人間が建設できるとき、その人間はあいさつできる」で検討する。

この命題は、現実に照らして考えると真であるように見える。しかし、これは建設と挨拶の間に因果関係があることを意味しない。むしろ、真島氏の発言は相関関係を示している。なぜか?

因果関係の定義ということを厳密な意味で考えるとわけがわからなくなるため、ここでは「Aという現象がBという現象の発生に最も決定的な影響を与えているとき、Aは原因、Bは結果と呼ばれ、AとBの間には因果関係があるといえる」とする。

さて、建設ができることはあいさつができることに最も決定的な影響を与えていると言えるだろうか?これは容易に否であるとわかる。むしろ、「社交的な性格である」という要因が「挨拶ができる」「建設ができる」という二つの現象両方の原因になっていると考えられる。
そもそも、真島氏は「挨拶ができへん人間は建設『も』できへんで」と言っている。よって、挨拶と建設についてそもそも並行して語られていることがわかる。

議論をまとめると、真島氏の発言は挨拶と建設の因果関係を指摘したものではなく、相関関係を指摘したものにすぎない。そして、挨拶ができることと建設ができること両方に社交性という要因が強い影響を与えていることが、その相関関係の正体である。

何を簡単なことを長々と感じているのか、と思われた方が大半だと思われるが、この議論は意外と重要である。なぜなら、我々は「AならばB」という形の命題を見るとそれが因果関係を示したものと勘違いしがちであり、それが誤謬であることを改めて確認できるからである。正しくは、相関関係か因果関係があり、前者は観測可能だが後者はそうではないというだけである。

SNSで「ならば」形式の命題を見かけたときは、ぜひこの話を念頭においた上で検討してほしい。

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