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自己紹介(高校時代)

こんにちは、第二回目の投稿となります!
名前が呼びづらいから、なにかいい案がないかなと考えますがセンスないので、何か思いついたら共有してください!お願いします!!!

さて前回は生い立ち中学卒業まで読んでいただきました。

今回は高校生のみにします、だいぶ長そうなので、、、


高校に入学して


私が選んだ高校は寮がありませんでした、自宅から自力だと2時間と少し、入学を検討する際に親が承諾したため、隣の市まで送迎してもらいそこから電車とバスで1時間(大体1時間半)のルートで登校してました。田舎者が多く朝練がなかったのが唯一の救い出した。

学校はあまり大きい声で言えないですが底辺高校です、そして私も例に漏れずおばかちゃんです笑 入学テスト、同じく推薦で入学したメンバーの半分以上が上位10位以内(何故) 私はもちろん下の中くらい。

ただ監督は勉強にうるさく、何かやらかすなんてこと怖すぎてできないため、真面目に遅刻もせず授業受けてました(当たり前ですね)
入学して初めて授業は座るもの、音楽など流さない、話したりしないってこと知りました、本当にやばいですよね。ギャップが大きすぎて息できませんでしたww

そして部活はもちろんやばい環境でした、今では考えられない坊主強制(中学も大会前は強制でしたが)、体罰なんて当たり前(小中高ありました)、土日は全部合宿、平日は家に帰るのは22時すぎ、朝は朝練ないのに5時半起き。今考えるとどうやって生活してたのか不明です笑 私が卒業するころにだいぶ体罰が問題になりました、遅い!!!w

入学前から自分が代表に選ばれてないことを先輩も同級生も監督ですら疑問に思われていました。そんな大した選手ではなかったですが、全国大会出てるのはかなりのレアなので、怪我したことだけで免れてました。ただそんな世界は広くないです、自分の中学の恩師は監督と仲が良いので、案の定リークされており、そして監督からは要領よくやって、何も本気でやってないことを見抜かれます。小学生までは本気でしたが、中学はうまくやることを覚えてしまい、そこから適当になんとなく上手にやることを生きることとしてました。

性格矯正、考え方やプレイスタイルなども意識改革が必要で、1年目の初大会はユニホームを外され、夏にはユニホームもゲットしインターハイいかせてもらいました。意外と根性ある自分にびっくり。

インターハイもそこそこ成績よく、そのまま新チームで先輩たちに混じり1年生を終えます。がしかし、中学で代表から落とされたのは、怪我が理由ではなく中学の恩師が『あいつはこのままだとダメになるから、落として欲しい』と懇願したらしいです。まあ今となっては本当にその方がよかったなと思ってるし、間違ってないけどあの時は裏切られたと思いました。色々高校選び含めて話がつながりますしね。

そして1年生の春休みに事件は起こります。
いつも通り駅に母が登校のため送ってくれてる途中で、『今日家出るから』と言われました。えーっと今日?今日って今日?みたいな
この人は計画性がないのかな、計画してても連れて行きたいなら一緒に計画するべきでは?と思いました。
私は『いやいや、2人で暮らす金なんかないでしょ、俺は親父といるよ』と伝えましたが、母は結局1人になりたくないんですね、その場ではそう言って別れましたが、迎えの時は全て荷物が車に積まれてあーこのまま連れて行かれるのねと、、、

そこからどこに行くんだか知らないまま、祖母の家に着きました。前回の記事読んでくれた方ならわかりますが、家に入れてもらえるわけ、、、と思ったら笑顔でおかえりと言われました。
このヒステリックな親子はどうにかしちゃってるんじゃないのかと思いました。親父からの連絡は無視しろと言われ、鳴るわ鳴るわでしたがフル無視せざるを得なかったです。

春休み中のため、ある程度誤魔化せるから祖母の家から練習に参加することになりました。
しかし、春休み終盤に急激に下腹部から股関節が痛くなり、練習中に立てなくなりました。みんなが駆け寄り、ぶつかってないよなと。自分も意味がわからず、なんとか引きずりながら端っこに移動し、トレーナーにきてもらいマッサージ受けました。
結果、よくわからないけどひとまず歩けるから帰って次の日病院に行くことに。

毎度お世話になっている(骨折は4回してます笑)整形外科へいき、よくわからんと言われてレントゲン、MRIとってもわからず、熱発したため虫垂炎かなと言われ、紹介された病院へ行くも結局わからず。痛すぎて寝られず38度が解熱剤飲んでも落ち着かず、祖母の家のため環境的にもきつかったです。

解熱しないため始業式も休みかなと思ってましたが、1人で病院行ってたときに、採血みて白血病とかそういう類のことを医師から言われ、もう死ぬんだと絶望して、なんども泣きながらガラケーで白血病を高校生ながらに調べた思い出があります、、、ある日、母だけ受診して薬もらおうとしたら、もううちでは見れないと言われ大学病院へ紹介されました。

そして紹介された病院の整形外科である程度の診察を検査を受け、また何日か後にきてと言われ帰りました。

高校2年生の初日

始業式があるため遅刻で行くことにして、制服、もちろんローファーを履いて病院へ。まず紹介された整形外科へ行き、一言目が『今日は入院になると思う、詳しいことは私からは話せないけどひとまず小児科に受診の手配してるから』と。
嫌な予感しかなかったです、小児科へ行き診察を受け、体を見られて骨髄穿刺するねと。おーっとこれはまじで白血病かと思いました。絶望の中、さすが小児科の医師、大丈夫、少し痛いけど怖くないからねと、私高校生ですが笑

じゃあ眠薬入れるよーと言われて、点滴から白い液体が流れてきて、こんなので寝るわk...…って感じで無事鎮静w プロポフォール最強だなと今でも思いますw
次起きた時は看護師3人にストレッチャーで運ばれて、『あ、起きた?大丈夫かな?今ベット行くからね』と言われ、もしかしてあの1.2.3ってやつ?と思って、なぜか拒否して自力でダイブw あの時転んでたらアクシデントだったよね、ごめんなさいと今なら思う。結局そのまま即入で、ローファー病院着のお洒落スタイルで入院生活が始まりました。

高校生活(入院生活?)

入院翌日、医師と看護師の朝回診でクリーンルームへ移動すること説明されました。クリーンルームは感染リスクの高い、感染が重複してしまうと危険な場合入るようです(看護師になった今でも不明瞭)無菌室ではないですね。そして入れるのは1等身のみ、つまり父と母のみで兄弟すら入れません。
そこからは飯食って抗生剤の生活、小児科なのでお風呂の順番が回ってくると、こんこんってされて小さい子がお兄ちゃんお風呂入れるよと教えてくれます笑
その中で看護師さんから年が1個下の子がメル友になりたいって言ってるけどどう?って言われました。手紙には可愛い文字でアドレスがかかれており、暇だしいっかと思い連絡を開始しました。
その頃は家出、病気、部活はできない、推薦のため高校通い続けられるのかなどなど色々悩んで自暴自棄で親にも当たり散らしてたので、いい話し相手が欲しかったです。そんな私は結果白血病ではなく骨髄炎で2ヶ月程度で退院という大体の目処がついていたのに絶望していました。

入院生活の貴重な出会い

連絡している中でお互いの病名などを話していたところ、その子は白血病でした。しかしその子はとても明るく、いろんな楽しい話や入院中のおすすめなど共有してもらったり、圧倒的に私が元気をもらっていました。自分が治ることが見えてるのに悩んでて、申し訳ない気持ちとしっかりと前向きに生きなきゃいけないと、強く感じました。その子とは共通点も多く、しかも小学生の時に同じスポーツしてて会ってましたw 写真お互い見せて、うわ!まじ見たことあるじゃんみたいなw本当に奇跡的な出会いでした。
その子は無事に寛解し、体調落ち着いたところで再開しました!相変わらず元気でうるさかったです笑 いまだに数年に何回か連絡は取り合ってます。(そしてその子も看護師になりました笑)

入院生活(結局また絶望)

親父は面会に一回も来なかったです、もちろん電話もありませんでした。まあ子供ながらに少し期待していたんですね。
面会は禁止で窓越し(透明の扉)でしか会えないのに、中学生の時に匿ってもらった叔父と叔母、中学の同級生、恩師などいろんな人が来てくれました。親は来ないのにって感じですよね、、、

そろそろ退院できる頃合いが見えてきた時、整形の先生から、退院しても運動はしばらく禁止と言われました。それもまた絶望です、何もかもがうまく行かない人生ってあるんだとつくづく思いました。
当時私は2年生のため3年生がいますが、私は試合に出てたので申し訳なさと、夏にはもちろん間に合わないのでかなりショックでした。
これまた優勝できるレベルの代だったので、もう今後運動できなくなっても出たいと思うくらい思い詰めてました、部活しかあの頃は拠り所がなかったからですね。ただ同級生に相談して、電話でインターハイいけば間に合うし、自分たちの代で一緒にできないなんて無理だよと泣きながら言われたりして、今思うとまじで青春と思いますね笑

退院後、日常生活へ


退院して結局何も変わらずに祖母の家に帰り、そして初登校。
まず授業再開もそうですが、監督の部屋へ行き、謝罪とドクターストップについて話しました。めっちゃ泣いてたと思います。ひとまずインターハイまでには許可が降りるかもしれないし、先輩たちが連れてってくれるから焦るなと言われ、鬼監督が優しくてまた泣きました。チームメイトも暖かく見守ってくれて、ボール拾いだけでも体力きつくて、走っちゃダメだし、何もできなくて見てるだけってのも辛かったですね。
部活には謎の栄養士がついてたんですが、一緒に買い出しにいったり、おにぎり作ったりよくしてました笑

そしてインターハイ前の大会で、今のチームの公式戦を初めて見て、私の代わりに入った先輩がボロボロで、もう試合見れないと思って応援席から逃げました。保護者から慰められましたが、本当に罪悪感しかなかったです。そのあとは怒り狂ってましたね、なんで私が入院してお前が健康なんだとか言って、あれ本当に理不尽な怒りです笑

ここしか居場所がない私なりの表現だったのかもしれないです、親も祖母も誰も信用できなかったので、本当に憤りのない感情を吐き出してたのかもしれないです。数ヶ月して運動の許可がおり少しずつ慣らしながら問題なく部活は続けることができました!正直、休んでよかったと冷静になってから思いました、あの頃は本当に何も見えなかったですね。

そして家庭は、祖母のヒステリック、母のヒステリック、両方が長く持つわけなく、ものの数ヶ月で出ることになります。金ないのにどうしたのってなりますよね、お金持ち叔父Bが半年の猶予といってアパートを借りてくれました。母との二人暮らしのスタートです。

母と2人生活開始と高校3年生

そこからは地獄でしたね、祖母や叔父叔母とは会ってはいけない、送迎できない日もあり電車で行くこと伝えるも、電車賃がないと言われ、歩いて10km駅まで行くこともあり、電気つかない日もあれば、ガスがつかない日も。祖父の家は近いのに逃げることもなぜかできず。本当に無理でした。たぶん母親は悪くない、親父がすべて悪いと思っていきていたのだと思います。そして親戚一同誰も私がどうなろうと関係ないのだと。

部活が唯一の救いで、合宿なら飯は食えるし風呂も入れる、暖かくして寝られる、そんなこんなで部活の成績もすごいよくなることもなく、国体も入院してたのもありもちろん選ばれず、早めの夏は終わりました。

高校3年生(大学受験を控えて)

ただ、ここからがまた問題発生。別居してることや家がもともとの家ではないことを先生や監督、ましては部活のメンバーですらほとんど知りません。親父は入院には来なかったけど、大会や合宿の炊き出しなどはきてました。そして親父面をかまして俺とは一切口を聞かない関係でした。
半年の契約された家も結局実家には帰らないことが決断され、母がすべて家賃なども含めて支払う生活が始まりました。本当にここでの家での日々は就職まで続きますが、本当に地獄でした。

そして受験生なので進路です、私はもともと大学は福祉系か医療で悩んでましたが、貧乏が嫌なこと、ただ金はないため看護師の大学か専門に行くことに決めてました。(奨学金が病院からも借りられるため)ただ引退は秋、AOは夏すぎから始まるため現役をやりながらの受験です。(センターなんていけません笑)もちろん部活推薦や自己推薦でスポーツ続けるメンバーもいましたが、、私は最初からやる気はなく高二で声かけられた時に監督にも話してました。

ただそれは私の気持ちだけです、ある日、AOの入試の応募直前に大会遠征のバスの中で監督の電話が鳴り話してました。電話が終わると私が呼び出された助手席へ。
『大学何個か声かけられてるけどどうだ』と、「いやもうスポーツはする気ないです」と伝えると、『父ちゃんとは話してるのか』と言われました。は?物理的には話してないけど「わかってるとは思います」と言うと、『やらせたがってたからちゃんと話して、大学の先生の話聞いてみなさい』と、、、
「いや、もう願書来週なんですけど、、、」『選択は急ぐべきじゃないし、そんな話誰でもあるわけじゃないぞ』と。この時、大学から声をかけられていたのが同級生ともう一人で二人ともやる気なし、大学でもやりたいといっていたメンバーは大学から声はかからない、こんな状況で仲も良く家の事情も話すような仲だったけど相談もできず悶々としてました。
監督の言うことは、そうだけどそうじゃないんだよと思いながらも、はいしか言えず。余計なこと言った親父に腹が立ち、何より大学で部活するのはめっちゃ金がかかる、遠征とかもろもろはバスもないため実費でほとんど移動になるし、寮でもアパートでも基本大学リーグは都内だし無理だった。さらに学費。誰が払うのってまず思ったのが一つ、そして誰がスポーツ続けたいと。親父の趣味を付き合わされる人生なのか絶望もあり、2年間話してもないのによく人の人生左右すること言えるなと思いました。

2年ぶりの対面と会話、そして縁切れ

そこからはまず担任と話、申し込み中断、めっちゃ電話でキレられましたwだよね、でも俺のせいじゃないし。
そして夏休みに大学の先生が学校まできました、遅刻したやつもいたけど。親父もきました、約2年ぶりの会話、大学の話を聞いて学費や就職先、コネなども含めて、、、、なにやりたいの?と言われて看護師って言ったら、口を揃えてほぼ全員がそんなのあとでもできる、と言われました。あの時は許せなかったですね、その後でもの学費はおじさんたちが払ってくれるのかな?って、、、そして親父も一緒に聞いてたけど、学なし中卒なので質問できるわけもなく、何しに来たのかなと。最後別れ際にまず考えなさいとか偉そうなことだけ言われた。

夏も終わりごろ、監督にそろそろ返事しないとなって言われて、学費とか諸々書類依頼していたものが届いて、また計算して奨学金とか考えたけど、1人じゃ絶対に無理だと気づいた。お盆明けの長野合宿の夜に、別居を知ってるチームメンバ1人にそばにいてもらい、親父に電話。
どう考えても払える金額ではないと思うこと、「今養育費払ってるの?なのに家の電気とまったりするのか?」とか色々言った。「サポートするよ」、といわれたが今されてるわけじゃないのに、信用なんかできないと。というかサポートって何やねん、親で進路コントロールしてサポートじゃなくて全部払えよと思いましたね、今の時代で自分が親で子どもにこんなこと言われたら泣いちゃいますが、、笑
すると『じゃあ、もう勝手にしろよ』と。あの一言でもう2度と連絡しないと思いました、もう二度と顔も見たくないと。
監督へ事情説明、他の先生もいる中で話して、親が子供に金がないとか言うのは、、、と。そういうもんなのかな、よくわからんけど、そもそも一緒に住んでないし、、、結果、大学は時期的に追えなくなり専門に行くことに決め、なぜか試験で特待生獲得して一年目無償で入学できることが決まりました。結果的には良かったのかな、お金もないなかだったので。
奨学金やバイトなど計算して学費とか生活費も考えて高校を卒業できるところまで来ました。

そしていつも恒例の卒業式です、はい、体育館入口で号泣。中学とは違い私の幼いころの状況を知るメンバーはいないため、え、もう?やめろ俺もなく、などなど言って、入場の早い私のクラスはトップバッターですでに何人か号泣してました笑 そして部活の後輩たちもなぜか入場で号泣してましたw

たくさん殴られて、血だらけになり、うさぎになれるくらいうさぎ跳びしたこの生活もようやく終わって夢に走るんだと意気込んで高校を卒業。

そして大学生活始まるのでした、、、


今回はここまでにします、今のところお前は適応障害になるまでの経緯見えないぞってなりますが、気長にお待ちいただけると嬉しいですw
それではまた、、、、