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鼻血じゃないのよ涙は

この歳になると、よくも悪くも何でも忘れて行く。
「忘却の河」の流れは下流に向けて加速する。

ああ、なんて潔く流れて行くこと。


20代の頃は何を考えていたかとか、
日々、どんな景色を見て過ごしていたかとか。

ましてや高校時代など、遠くで音だけ聞こえている花火のようだ。
そんな頃が自分にも本当にあったんだよねえと何だか他人事。

が、noteで様々な記事を読んでいると、忘れていた記憶がふいに蘇ることがある。

何でもかんでもぎゅうぎゅうに押し込んでいた押入れの扉の隙間から、何かの拍子にぽろっと落ちて来る、くたびれた靴下の片方みたいに。

「お~、こんな色の靴下持ってた~」と、手に取って見ると、親指のとこに穴が開いてたりしてちょっと恥ずかしさも伴う。


こちらアークンさんの記事を読んでいて思い出したのが、高校二年生のときに担任だったフクシマ先生のあの表情と言葉。


私の母校はもともと女子高で、共学になって10年ほど経過した当時、生徒の男女比率は4:6くらいだったろうか。

公立の普通科高だが、全体の偏差値平均がいくら伸びたとしても60を越えられることはまずなかった。
それは文系教科と理数系教科の数値の乖離が甚だしいのが要因で。

先生たちの多くはいつも『上』を目指す熱い思いも持っていたようだが、理数系が苦手な子が集まってしまう傾向を打破できず、「文系に大きく偏る」が不名誉な伝統にさえなりつつあった。

私自身も例にもれず、数学と国語の乖離幅が20以上あるという、我が校典型の生徒だった。足して2で割るとちょうどこの学校の平均偏差値になる。

今はあまり聞かれなくなったが、人間社会の構図を『働きアリの2:6:2の法則』に例える表現がある。

私たちはいずれ放り出されるであろう社会集団の『6』の後方に属する類という予感もこの頃には既に自覚しつつあった。

「6」の先頭、前列を行く仲間たちが苦手を克服してさらに前へ出て行く、そんな彼らの背中を望遠レンズで見ているような位置。

大人たちから『頑張らない、意欲がない、関心がないの三無い〇〇高生』などと揶揄されても、ヘラヘラしている生徒ばっかりだからなのかどうか、校風は至って穏やかで悠長。

まあ良く言えば、なんだけど。

当時流行りのぺったんこ鞄にロング丈スカートのいわゆる「スケ番」的ないで立ちの子もちらほらいるにはいたが、積み木を自ら崩したり、バイクを盗んで走り出すような強い衝動性も反抗心もなく、せいぜいお腹痛いと早退したり、早弁する程度で、尖ったところは一切ない。

「競う?何それおいしいの?」みたいなことを言っちゃうような、のほほんとしたゆる~い雰囲気の生徒が多かった。


フクシマ先生は当時40代半ばくらいだったと思う。

他校から異動して来た春に私たちの担任となった。

20年も工業高校で鍛えられた割に(?)、新しく来たとは思えないほど、この学校の雰囲気に違和感のない、のんびりおっとりした風情。

そして、女子の私たちとそれほど背丈の代わらない、小柄で丸顔で色白で、雰囲気でいえば俳優の中村梅雀のような、「人の良さそうなおじさん」といった面立ちをしていた。

雰囲気は最初から馴染んだものを持ちながら、男子で占められていた工業高校に長く居すぎたせいか、女子生徒の笑い声や歓声の色鮮やかさに、いちいち面食らって真っ赤になるような純情なところがあった。

フクシマ先生の担当は古典だった。(現代国語もだったかな?)

2年生からは理数系も文系も選択科目で構成されていたと思う。
古典も確か「Ⅰ」とか「Ⅱ」とかあって、私は3年生も古典を選択したので先生の授業は二年間受けた、、はず。


赴任して半年ほど経ったある日の古典の授業中、フクシマ先生は板書の途中で黒板を向いたままチョークを滑らす手を止めた。

チョークは黒板の文字の途中にあって身じろがない。

ノートをとっていた私たちも、その気配に先生の背中へ視線を上げる。

黒板の前の先生は、一枚の静止画のようだった。

ん?

どした?

わかんない。

私たちは隣の席の子たちと目配せを送り合う。

そこに、鼻水をすすり上げるかすかな音が響く。
音源はフクシマ先生と誰もがわかる。

あれ?

何?

鼻血…?

鼻血⁉

私たちはさらに口パクとジェスチャーまで交わし、困惑し合う。


しーんとした教室の中、
湿った響きに、みんな戸惑いながら先生の背中を凝視している。

時間にしたらほんの数秒の間。


「…あ~、すまんすまん」

おもむろに体をこちらに向けたフクシマ先生の顔は真っ赤だ。
でも真っ赤なのは顔だけで、血の気配はない。

私たちは状況が呑み込めず、黙って注目している。

フクシマ先生は持っていたチョークをそっと置いて、白くなった指先を見る。

それからゆっくりと、その視線を黒板に移す。

流麗な筆跡で書かれた黒板の、古典文学の一節に目をやりながら

「俺はこういう授業がずっとやりたかったんだよなあって思ったら…」

「泣けて来ちゃった」


フクシマ先生はその真っ赤な顔をもっと染めて「えへっ」と、肩をすくめて笑った。
耳の後ろまで真っ赤だった。


フクシマ先生の専門知識は、これまでの実業高校の教師生活でその本領を発揮されることなく過ぎたのかもしれない。

普通科の高校に来て、大好きな貫之だか長明だかの授業が出来ている実感に感極まったらしい。

きょとんとしていた私たちの顔面も先生のバツの悪そうな表情につられて、じわじわと崩れて行く。

「いや、中断して申し訳ない、でも、ありがとな」

それ以上染まったらリンゴと区別がつかないんじゃないかってほど真っ赤になった顔をくしゃくしゃにして、先生は手の甲で下瞼を拭った。

私たちはみんなニヤニヤしていたけど、授業が終わった後も誰も先生のことを笑ったり茶化したりしなかった。


すごいねと褒められることもなければ、悪さをして困らせるわけでもなく、『中途半端な後方』をぞろぞろ歩いているような自分たちが、大人に喜んで貰えるなんて。

教室の机に座って、板書を写して、ただそこに居るだけなのに。

何等分かに切ったケーキの一番大きく見えるピースを「これ、お前の」と真っ先に差し出されて「何で私に?」みたいな。

不慣れなこの感覚をどう表現すればいいのかわからない。

でも、やっぱり嬉しかったのだと思う。

先生のその機微にまで思いを馳せるには、あの頃の私たちは幼過ぎた。
泣き笑いでくしゃくしゃの表情を見せてくれる先生の気持ちをただ、素直に受け取った。

先生、あたしゃ、もっと喜んで貰えるようがんばってみるよ。

心にそう誓ったはずだが、その後の期末テストの点数が跳ね上がったなどの誇らしい記憶はない。


色んなことをすっかり忘れまくっているのに、フクシマ先生のあの表情は今でも思い出せる。

そして、あのときみたいにニヤニヤしてしまう。




・・・



こんな温厚で純情なフクシマ先生に、翌年3年生になった私が「だってコワいもん」と言われる羽目になるエピソードまで思い出してしまったが、それはまた気が向いたら、、、ってことで。

今日はこの辺で
では また。



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