note詣
読むだけnoter
ここのところ、記事と言える記事を書いてなかった。
書いてなくはないのだけど、
投稿に至らず、保存して終わっている。
書いたのに自分が読んで
「まぁ、いいかぁ」で「保存」
おしまい。
noteは画面が真っ白で邪魔がなくて、
リアルな、まっさらなノートに
ペンを走らせているかのような感覚が心地良い。
その心地よさに浸ってるだけで
投稿せずにいる記事が結構溜まってしまった。
何だかなあと自分の記事を眺める。
でも、noteは読むのが面白かったりするので
ほぼ毎日開いている。
noterさんたちの記事がとにかく面白い。
色んな方の感受性にあふれて宝箱のようだ。
時間があればとにかく読んでいたくなってしまう。
この二か月、私は読むだけnoter。
が、読むばかりでは何だか申し訳ない気もして
たまにつぶやき投稿してみたり。
・・・何だかお賽銭おさめてるみたい。
つぶやき投稿をお賽銭とすると、
いわば、この二か月の私は『note詣』状態。
「ボイド周期」と「紅茶周期」
私には昔から、ときどきやって来る
厄介な感覚があって、
「楽しいから」で何かやっている私を
自分の中にいるもうひとりの自分が
「何やってるの?」と冷めた口調で囁き始め、
面白がっている私をしゅんとさせてしまい、
心理的に萎えた状態に追い込んでしまう。
エネルギーの「出る」のスイッチが
オンにならない感じ。
この感覚に入るとしばらくの期間、
自分のエネルギーが
梅雨空のような停滞ムードになる。
ただ、仕事や家事などのルーティンやタスク処理に
この心理状態があまり影響しなくなった。
これは恐らく
私のスキル習得のなせるところと褒めていい。
(ただ、やっつけ感は否めない)
西洋占星術で
『void time~空白の時間~』
という概念があるが、
天体の動きにそんな状態があるなら
身体も宇宙なのだし、そんな周期があっても、
まあこれも自然なのかなと思う。
名付けてみたところで打つ策はこれと言ってないので
ただ、過ぎ去るのをじっと凌いで待つ感じ。
あらがわず Let it be
諦めの Let it be
そういえば、味覚というか嗜好でも
普段は圧倒的にコーヒー派なのに、
紅茶ばかり飲む時期が年に数度あり、
それをやはり勝手に「紅茶周期」と呼んでいる。
でも「ボイド周期」と「紅茶周期」に
相関関係はみられない。
これはコレ、それはソレなのか?
自分の身体のことなのに、よくわからない。
ボイドタイムの処方箋
半世紀もこの身体でやってきたのに
私はこの自分の身体や心のことが
よくわかっていない。
『自分の身体に耳を傾けて~』
ヒーラーさんがそう仰って下さるが
・・・さっぱり何も聞こえない。
でも、梅雨の時期が必要なように
こんなボイドな周期も
何か原因や理由があるのだろうし、
自然の作用に任せて
ぼんやり眺めているしかない。
あー、はいはい、やる気出ないのね。
ん-?ためらう方が強いのね。
自分を俯瞰することはすごく上手くなった。
生きていればそれなりに何か習得するものだ。
そんな状態の私にとって
noteで、色んな方の色んな心のありようを
覗かせてもらえるのは
『処方箋』を頂いているようだと
最近、気づいた。
誰かの書いた言葉に
ほっこりしたり、ニヤっとしたり
ワクワクしたり、ドキッとしたり。
voidな心に様々な感情や思いが
じんわりと沁み込んで
漢方のように優しく効いてくる。
惹かれるままに読んでいるけれど、
何となく惹かれるのはきっとそれが
今の私に必要な成分だからだ。
いつも読ませて頂いているnoterさま
皆さまのおかげです。
ありがとうございます(合掌)
もうすぐvoidから抜けると思います。
・・・わかんないですけど(苦笑)