魂の縁に感謝(「時空を超えて出逢う魂の旅」特別編~印度支那~)
noteの皆様へ、感謝申し上げます。
私は、古の物語をもう一つ、この場を借りて共有できました。
想いを解き放ち、光に還すことができました。
その奇跡を、とても有難く思います。
私達の内には、いくつもの”私”が存在します。
その”私”は、大元である「私」と直結しています。
と、いいますか。
”私”は「私」。
つまり、この世全ての存在は、一つ。
”私”は皆さん、でもあるのです。
俄かに、信じがたいですよね。
ただ、これが事実だと、思い出しましたので・・・。
私達は、愛そのものなのです。
過去、揺れに揺れた人生を、私はたくさん経験しました。
覚醒して生きた生もありましたし、
ただその日を生きた、粗暴な生もありました。
そのどれも、素晴らしい必然の経験でした。
この世に名声や富を残す存在を経験したことも無いけど、
「生きた」経験があるだけで、私、そして皆さんも、完璧な存在です。
肉体には、死があります。
しかし、魂は、永遠。
皆さんは、どんな物語を経験され、今を生きていらっしゃるのでしょうか。
ご自分に、心を澄ませてください。
生の瞬間。そして幾多の死の瞬間。
一秒先に、自分が生きていることを切望した連続だったでしょう?
生きていさえする今の瞬間は、ただ幸せでしかないことを思い出し、
絶対的な幸福感で満たされると思います。
肉体が存在し、思考することができる。
これは奇跡です。
昨日のことを思い出し、今やることを考え、未来の予定を立てる。
これも奇跡です。
パートナ―の愛・人望・富・社会的地位を、魂は持ち歩くことできません。
しかし生を経験できたこと。それは永遠の財産。
これは奇跡です。
あらためて思うのです。
この諸行無常の世に在っても、
今を生きることができることは、なんと幸せなことか。
全てに感謝しかありません。
私の今世、おまけの幸せがいくつもありました。
最初に出逢った時の懐かしさは、
学びきることができなかった学びをスタートさせるためでした。
本当に、色々なことがありました。
”剛充”との日々から、私は無条件に人を愛することを学んでいます。
幸せとは、外に在らず、内にあることに気づくことであること。
自らを研ぎ澄ませ、全てをとらえると「感謝」でしかないことも。
”剛充”よ。あなたとの学び、今世こそは卒業すべく精進します。
この腕に抱いた小さなぬくもりは、”茉莉”でした。
自らは同じように、かつてその腕に抱かれ育ったことを思い出した時。
胸が熱くなりました。
今世も、母なる大地のような存在。
”父”は、相変わらずの知性ある常識人。
”剛充”との学び、今世は終えることができますように。
聡明な情熱家。マルチプレイヤーの”慈恵”。
noteへの縁をありがとうございました。
貴方様はいつも、私の先を歩まれる兄弟子。
必然あれば、”大老尊師”にも目通りしたいものです。
何度も縁を楽しんだ”空昊”。
”聾唖の彼女”とお幸せに。
今世は互いに、魂に生きましょう。
そして、老衰を初めて経験した後は光に還れますように。
番外編。”賢彰”
誰だかわかっていますが、200年ほど前に学びは終えています。
今世は会うことがないでしょう。
”碧海”、とは。
印度支那以降、数百年後、再会。(数日間でしたが)
その後、今に至る数百年以上、出逢っていません。
そう言うと、彼は私に、このように言うでしょう。
「我らは離れることは無い。そうであろう?」と。
そうでしたね。宇宙に我々は存在しているのですから。
片時も離れ離れになることは無い。
当初、光環は”碧海”と共に隣国に渡り、世の光となり
共に葬られたと思っていました。
(もしかしたら、別の時空ではそうだったのかしら)
細部を辿ると、それは事実でなかった。
そして、玉の存在が出てきました。
その地の玉に強く惹かれる理由が、今は理解できます。
”碧海”と出逢えたら。
今度こそ、この肉体の枷を越え、
今の瞬間の幸せを共に、ただ感じ合いたい。
私は恥じらってばかりで、彼の顔を正視できなかったのでしょう。
彼の姿の記憶といえば、肩や腕、足首などばかり。
今度こそ、その瞳を、魂を見つめたい。
なぜ、私が自分の心の内をここに綴るのか。
理由はわかりません。
でも、このnoteが今、必要な方に届きますように。