無駄を愛せるか
私は夜行バスを地下鉄メトロのように乗りこなす。
愛用のカメラを握りしめて1人でどこへでも。瀬戸内海の空気を吸うため、地元へ帰省。日本全国を駆け回り各地域のいいものを発掘し、東京で売るというセレクトショップをやっていたため、その仕入れのために何往復も。自分の手足を動かして感じたことが、1番の血肉になると信じて、あっちこっち飛び回っていた。夜行バス明けには、そのまちのサウナをご褒美にするというマイルールのおかげで、夜行バスは余裕だと胸を張って言える。
この原稿を書いている3日前にも夜行バス帰りに、横浜から数駅のサウナへ。だが、そこにメイクポーチを丸ごと忘れてきてしまった。着払いで送りますねと言われたけど、あえて「直接取りに行きます」と伝え、翌日もう一度そのまちをわざわざ訪れた。早朝の静まり返ったあの時とは違う顔のまちを、当てもなく歩いてみることにした。この、無駄足だと思われそうな冒険により、人生で最高にチャーミングな喫茶店に出会ってしまったのだ。
夜行バスを駆使して旅することも、世界を広げてくれる。けれど、目の前に転がった無駄(に見えそう)なことを5歳児のように面白がって楽しむことも、私なりの世界を愛する術だった。喫茶店も中に入らなければ、店名が「マア」だったことには気付かなかったのだから。
マガジンハウスでは、各試験前に何人かの編集長の話を聞くことができる。
筆記試験前のトークテーマが、「雑誌は雑談から生まれる」だった。
1時間の中で”雑談”,”無駄”という言葉が何度も編集長の口から出てきた。
ああ、私が私のままでいていいのはここかもしれない、と思えた。
大学で、社会学・コミュニケーションデザインを中心に学んでいる私は、『社会学の教科書』(ケン・プラマー)の「あらゆるどうでもいいものの社会学」という章を何度も読んだ。社会学では、壮大なことから些細なことまで、「あらゆるどうでもいい」ものが、研究の対象になる。この本では、3つの「T」(トマト・トイレ・テレフォンの社会学)を例に挙げて、調査の事例を紹介している。どうでもいい(とされている)ことと、具体的なことを愛しなさい、と言われ続けた研究室。私はやはりそういうことを考えたりやったりするのが好きでたまらないのだと思う。選考の全ての過程は、「これまで自分が(あなたが)大切にしてきたことを愛し続けられる場所なのか」を、丁寧に確認していく時間なのだと思う。