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読書感想文『こうふくみどりの』西加奈子

この物語の良さを、深みを、ネタバレなしで言い表すのは至難の業だが、できるだけネタバレなしで書いてみる。

誰かにこの物語の良さが伝わるといいなと思う。

あらすじ

主人公は1991年の大阪の中学生、。緑が暮らす辰巳家は、夫が戦後のどさくさに紛れて失踪しいるおばあちゃん、妻子ある人と恋に落ち未婚で緑を産んだお母さん、DV夫と離婚したい従妹の藍ちゃん、その娘で意思表示をしない桃ちゃん(4歳) 、そしてまだ恋を知らない緑―――女ばかり5人家族で、なぜか絶えず人が集まる不思議な家だ。男運がなさそうな家族だけれど、訪れた女の人は皆、おばあちゃんはおろかお母さんや藍ちゃんまでもれなく好きになってしまう。訪れる人の多くはおばあちゃん目当てだけど、おばあちゃんが居なくても、居心地が良いのか皆長居して嬉しいことも悲しいことも全部喋ってしまう。
いっつもカウボーイハットをかぶっている田村のおっちゃん、別嬪で皆の憧れ 親友の明日香、焼き肉屋『金』の息子 金田―――緑の日常にはたくさんの愉快な仲間が登場する。
ある日、緑は明日香のクラスに転校してきたコジマケンに「ええ名前やなぁ。」と言われて、それ以来ずっと気になっている。明日香の口から、コジマケンと何を話したとか言われるとおなかの奥の方が、ぎゅうっと上に上がる。

緑の初恋(三角関係というか、もはや)

舞台は大阪のとある街というだけあって、緑の視点からの物語が大阪弁の語り口調で進んでいくのが特徴的で、緑がどれほど素朴で素直な中学生なのかを強調している。学校で、明日香を中心としたませた子のする初体験の話を、なんとなく嫌悪感をもって聞いているところなど、思春期の女の子の心情がよく表されていてなんだかかわいい。あらすじにもあるように、出奔したり、最初からよそのお父さんだったり、喧嘩で死んでしまったり(藍ちゃんのお父さんのこと)、離婚(予定だが)したり、様々な理由で、緑の家族には夫やお父さんというポジションの男性が存在しない。だから明日香にも「あんたも気つけや、男運悪いんは、遺伝するらしいで。」と言われてしまう。

コジマケンは、どういう男なんやろか。もし、もし、もし、百分の一の可能性、うちのこと好きになって、うちら結婚したりしても、コジマケンは「しゅっぽん」したり、「ふりん」したり、「ぼうりょく」振るったり、せえへんやろか。
コジマケン。
ご飯食べてるときとかに、思わず声に出してしまいそうなときがある。うちは慌ててご飯と一緒に飲み込む。それはご飯より味噌汁より、藍ちゃんのどんな料理より、うちのお腹をぎゅうぎゅうにする。苦しくなるくらい、お腹をぎゅうぎゅうにする。

『こうふくみどりの』西加奈子

言葉にして好きだと認めないのに、初恋の症状は顕著に出ている。付き合っているわけでも、告白すらしていないのに、結婚した後のことまで想像して要らぬ心配をしているところがかわいい。1991年当時の素朴な中学生からすれば、真剣そのもので一大事なのだろうけれど、ふっと笑ってしまう。今まで彼氏をとっかえひっかえしていた明日香がコジマケンに夢中になったものだから、卑屈な気持ちや嫉妬でいっぱいになるところも中学生のそれを思い出した。でもこの初恋は思わぬところで終わりを告げる。三角関係に見えていたのが実はそうではなかった。「そらないで」と思わず共感してしまうことの顛末が明らかにされたと同時に、そこに至るまでの文章にちりばめられたその痕跡がフラッシュバックして、もう一度「そらないで」と思った。初恋は実らないと言うし・・・と、無責任に緑を励ましたくなった。こうやって女の子は人生の酸いも甘いも経験していくのだろう。

緑以外の3人の視点

この物語には、緑以外に後半まで素性が明かされない一人と短く3人の女性の視点が出てくる。そのうちの最初の三人は、プロレス、特にアントニオ猪木好きの夫を持つ女性だ。あまりにも突然出てくるものだから、最初はこの家族の内の誰かなのかと思ったけれど、すぐにそれは見当違いだと分かり、もしかして…と思うある一人の可能性がページを追うごとに色濃くなっていく。この人の視点があることで、物事は、人間は、良いことも悪いことも表裏一体なのだと徐々に意識しながら読み進めることができるキーパーソンである。

緑の視点から見れば、彼女の目に映る女性は皆、きれいで優しくて、それでいて幸せそうだ。けれど、緑がいる現在地点に行きつくまでに各方面でどれだけの紆余曲折があったのかをこの3人の別の視点が緑の視点と螺旋階段を並走するように読者に少しの違和感とともに徐々に見せていくことで、この物語の世界観に深みが出ている。これが西加奈子氏の筆力なのだろう。私個人的にはこの文章の構造がDNAの二重螺旋構造を彷彿とさせ、明日香の言う「あんたも気つけや、男運悪いんは、遺伝するらしいで。」というセリフをまた思い出してしまう。空恐ろしい。

子供のころは、親を含む大人は自分よりも長く生きているのだから、それ相応の経験を積んできているのだろうとは想像するものの、実際自分が四十路になってみて、あの頃の想像は甘かったと思う。緑のもっと幼いころの記憶の中に、自分の父親に対するお母さんの葛藤みたいなものを垣間見る一幕があるし、おばあちゃんや藍ちゃんに対しても似たような描写はある。けれど、中学生の緑にも子供のころの私にも大人の女性がどれほどの経験を経て、今何食わぬ顔をして目の前にいるのかなんて分かりえないなと思う。

緑にとっては自分の幸せを構成する要素である女ばかりの家族だが、きれいで優しくて、幸せそうな彼女たちにも現在地点にたどり着くまでの顛末がある。特に辰巳家を人の集まる居心地の良い場所にしているおばあちゃんは、何か特別な力を宿しているように見え、とても強い精神を持つ人物に見える。そうなるには、人一倍壮絶な過去があり、何なら実際に“ある重大な事件”を実際に墓場まで持って行ったのだから相当な覚悟の上に成り立ったことだろうと想像する。でも緑も、他の家族も誰もそのことを知らない。読者だけが知ることになるのだ。

海は、女やと思います。何か決意したとき、よこしまな気持ちになったとき、哀しくて泣いてるとき、心の中が、海と、おんなじ音しますねん。ぞうぞう、ぞうぞう。すっかり乾ききってるはずやのに、じくじくと湿っぽくて、周りの音を、全部とってしまう。海は、女やと思います。

『こうふくみどりの』西加奈子

所感

緑の視点では最後の一文までは、素朴な大阪の中学生の日常を、(時代は多少違えども)自分の子供の頃の心情を思い出しながら、どきどき、おやおや、まぁまぁ、などと心を動かしながら楽しむことができる。それと二重螺旋で垣間見える一人と三人の大人の女性の視点は、女の一生というのは多かれ少なかれ一筋縄ではいかないのだと思わされ、緑の中学生ならではの心情と対比する形で、ある意味、男性や恋を知る前と知った後で何かが変わるような対比も感じられる。世代を跨だり、時間や場所を隔てたりするけれども、点と点は出会ったりまた道を分けたりして、脈々とつながっていく。縦横斜め、網のように連なっていく物語や人生や世界をこの物語は解像度高く教えてくれる、見せてくれる。物語の最後の一文は、一見、緑の未来に希望が見えるたかのようにも見える描写があるのだけれど、一方でそれは二重螺旋で受け継がれていく不思議で不穏な力、もしくは業みたいなものを感じさせ、全体の物語としてほっこりする感覚とほのかな恐ろしさを残す。人間、特に女性の奥深さを感じられる大変面白い作品だった。

ちなみに

この作品は2039年の東京を舞台にした男性が主人公の『こうふくあかの』という作品と連作になっていて、そちらも直後に読了した。続編という感じではないけれど、どちらにもアントニオ猪木が登場する。2冊の関係性からもこの世界の時間が脈々と繋がっているのだということを感じることができる。ただ個人的には、自分が女性だということもあるのか感情移入でき、物語の結末の意外性も含めて『こうふくみどりの』の方が好みだった。

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hummer
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