I Sing Because I'm Happy 非理性的感覚的本能と信仰
ひとの行動を支えるものは何か。生きるために必須の基本的行為、例えば、食べる、排泄する、眠る、恋をする、あとなんだっけ?こうした基本的動作、あえて言うなら基本的動詞の根底にはおそらく本能がある。
本能?
はて。本能とは何か?積極的に考えたことがない。少しネットを調べた。生まれつき持っている性質。非理性的で感覚的なもの。とある。食欲睡眠欲性欲。たしかにね。お腹が空いたら食べなきゃいられない。お腹が空いたら世界のどこかで今、この瞬間にも起こっている非人道的滅茶苦茶な爆撃、民間人の命を直接に奪う一方的な理屈、について考える余裕などない。睡眠欲しかり。性欲。
性欲か。
最近ことごとく思う。
感情「好き」をたどると、根に在るのは性欲なんだろうか?
感情「好き」を患った心は、肉体の満足を得てはじめて「一息」つくのだろうか?
仮に「生まれつき持っている性質。非理性的で感覚的なもの」を本能と定義するのなら、本能に類似したものとして大きく言えば「芸術」に突き当たるような気もする。すべて芸術とは「詩」を含む、あるいは「詩」は芸術の代名詞であると仮にこの場で叫んだとしてもおそらくはどなたの迷惑にもならないだろうから、本能と「詩」は極めて近いところで互いを認め合っている、などと述べてみたい。
ならば。
「詩」とはなに?
「芸術」とはなに?
わたしにそんなステキな質問をしてくださる方がいたら、すぐさま抱きつく。その方はわたしが
「詩とはテントウムシのことです」
「芸術とは身体の内部の、指で掻くことが出来ない、痒み、のことです」などと呑気なことをまくし立てたとしても、たぶん笑って見逃がしてくれるはずだ。
なにを書きたかったのか、ようやく思い出した。芸術や詩を書きたかったのではない。「本能」を書きたかったワケではない。本能に寄らない人間の行為を支えるものは何か?を書きたかった。もっというと、人の「書く」行為を支えるもの、「書く」の動機は何だろうか?を書きたかった。
少しだけそれる。
話す。はどうだろう?
本能だろうか?
人間の存在が言語によるコミュニケーションによって大きく維持、保全されていることを踏まえれば、話すというこの「動詞」も一種の「本能的行為」にあたるのか?
感覚をあらわす動詞。見る聞く嗅ぐは「本能」なんだろうか?
なぜ、このような「どうでもいい分類」に私は拘る、拘ろうとしている、拘っているフリをしている?
さて。
ひとはなぜ「書く」のか。
①客観的事実としての情報伝達
②個人の意志あるいは感情、つまりは精神活動を他者に伝えるため
③頭の整理整頓
④次世代への文化継承
⑤歴史編纂
⑥身分証明
⑦既存価値あるいは伝統の伝達
⑧まったく新しい価値観を発見するため
⑨神と宇宙を考察するため
いろいろ考えてみたが、④~⑨はすべて①②③のどこかに放り込める。
ひとはなぜ「書く」のか。と大仰に構えるから話がドタバタする。私はなぜ「書く」か。に絞る。
うむ。正直を選ぶならかつては「書く」=小説だった。たいして読んでもいないのに、なぜか「小説」を書きたかった。否、「小説家」になりたかった、というのが本当か。
現在はその心をほぼ失った。失うまでにはいろいろあった。たいしたいろいろではないので省略する。
現在、わたしが「書く」のは単なる習慣だと考える。クセになっているのだ。なんやかやと結局この場所に戻りなにかを「書く」
後先はわりとどうでもいい。
習慣は時に人を「幸せ」にしてくれる。
最近ゴスペルサークルに入れていただいた。
I sing because I'm happy
(わたしは満たされている。だから歌う)という曲のアルトパートを時間を見つけては練習している。
I sing because I'm happy
I sing because I'm free
His eye is on the sparrow
And I know he watches me.
わたしは満たされている。だから歌う。
わたしは束縛されていない。自由だ。だから歌う。
イエス様の目は一羽のスズメにも注がれている。
だからイエス様は私のことを見守っていて下さるのだ。
こんな訳だと思う。
ここ数日、朝も夜も昼もこの曲ばかり聴いている。自分はキリスト教信者ではなく、日本人として、あるいは常日頃外国語を学ぶ者として、キリスト教を客観的に考える必要性をわりとマジメに意識内に抱いている。だが、このゴスペルソングを浴びているうちに、「非理性的感覚的」に幸福感が心と身体の両方に芽生えたように思うのだ。
幸福感は心だけに宿るものではない、身体にもたしかにそれは芽生える。躍動し、汗ばみ、自然と笑顔がこぼれる。再度書くがそれは「非理性的感覚的」としか言いようがない。
冒頭に戻る。
「非理性的感覚的」は「本能」の定義を構成する一要素であった。
イエス様が「私」を見守ってくださっている。
この一行が「本能」として心身に定着する。もしそのような状況が我が身に訪れることがあるのなら、私はもう抗いようもなくイエス・キリストなる大いなる「存在」あるいは愛に満ちた「ひと」の衣の裾にすがるようになだれこむ、のかもしれない。
さいきん、よくわからなくなった。
この「よくわからない」感じをそのままに見守りたい。