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未必の恋[さ:殺人犯]

「ねぇ、伊藤さぁ、シュレディンガーの猫って知ってる?」

夏の日差しが照りつける中、ベンチで休んでた俺にマネージャーの鈴鹿が声をかけてきた。

切ったばかりの短い髪が汗で顔に貼りついている。

「え、なに、それ」

正直、野球部の練習をサボってるのを見つかって後ろめたかった。今思えば彼女はそこに付け込んできたんだと思う。

「なんかね、私もよく知らないんだけど、箱を開けるまで猫が生きてるか死んでるか分かんないんだって」

「本当によく知らないんだな」

彼女はテヘッと舌を出した。笑うと八重歯がニッと出て急に幼くなる。

「ごめん、練習もどるわ」

「よろしい」

彼女のしたり顔を無視して、俺はグランドに向かった。

がんばれよ!

彼女の声援に俺は振り返らなかった。


いくら弱小高とは言え甲子園が近づくと練習は遅くまで続く。

2年になったら、少しはましになるかと思っていたが一年の頃にも増して先輩たちにしごかれた。

練習が終わると初夏の空がもう真っ暗になっていた。

俺は教室に課題を忘れたのを思い出して取りに戻っていたから、帰る頃にはグランドには誰も残っていなかった。

校門に向かうと彼女が立っていた、誰かと待ち合わせしてるのか背中を丸めてスマホをいじってる姿は妙に大人っぽい。

声をかけずに通り過ぎようとすると、彼女は俺に、っよ!と言って声をかけて俺の横を歩き出した。

彼女は俺を待っていたらしい。

「さっきの話覚えてる?」

「え、あ、あの猫の箱がどうとかみたいなやつだっけ?」

「シュレディンガーの猫!」

小さい子みたいに声を荒げる彼女に僕は一瞬言葉を詰まらせた。

「それでね、これ、受け取ってほしいの。」

彼女はスクールカバンから茶封筒を取り出した。

それは女子高生が持つにしてはあまりにも業務的な見た目をしていた。

「私ね、秘密があるの。でね、この封筒の中に書いて入れたの。伊藤の秘密も明日私に渡して」

彼女はそれを俺に押し付けてきた。

「中身は見ないで、そしたら猫はまだ死んでないから」

俺がその封筒をつかむと、彼女は猫のように走り去っていった。



「ラブレター……だよな?」

俺は机の真ん中に茶封筒を置いて頭を抱えていた。

校門で待っていた意味深なことを言われて女の子に手紙を渡された。

客観的に見てこれはラブレターなんじゃないか。

悶々と悩んだ挙句その夜は結局封筒の中身は見なかった。

翌日鈴鹿に昨日のことを問い正したくて仕方なかったが、タイミング悪く鈴鹿とは会わなかった。彼女のクラスに直接赴ても彼女は席に居なくて、仕方なく自分の秘密を入れた封筒を彼女の机にしまった。

秘密の内容は悩んだ末に先月近所のスーパーでチュッパチャップスを1つ万引きしたことを書いた。

昨日の夜は大まじめに書いたんだが改めて考えるとその程度の秘密しか思いつかなかった自分が恥ずかしかった。

部活には来るだろうと思っていたが、結局彼女は部活にも来なかった。

次の日もその次の日も彼女には会えなかった。

なぜか、日を追う毎に空しさが迫ってきた。

俺が縋れるものはもうあの茶封筒しか無かった。

あいつが悪いんだ、そもそも見られたくない秘密なら人に渡すべきじゃない。

見ろと言っているようなものじゃないか。

その時の俺にはそれが至極まっとうに思えた。そう思うしかなかった。

追い詰められた俺はその封筒をビリビリ破いた。

「貴方も誰かを殺したことがありますか?」

中から出てきた短冊状の紙には一言そう書いてあるだけだった。



次の日から、それまでより増して苦しい日々が始まった。

相変わらず彼女には会えない。

彼女の秘密は、一人の俺にはあまりにも重すぎた。

いい加減どうにかなってしまいそうだった。

その日僕はスーパーでチュッパチャップスを2つ盗んだ。

彼女に会えない毎日を俺はそうやって過ごした。

「君、ちょっと事務室まで来てくれるかな?」

そうなるのは、時間の問題だっただろう。店員は事務室に通された俺が罪を自白するとあっさりと警察を呼んだ。

それからはあまり覚えていない、その日は父親の怒号と母親の泣き声が家に響いていた。

家族がバラバラにちぎれていった。

それから暫く学校に行かない日々が続いた。

部屋に閉じこもってたまに今まで盗んだチュッパチャップスを舐めて過ごした。

僕が毎日盗んだチュッパチャップスはいつの間にかスクールカバンいっぱいに収まるほどになっていた。

長い時間の中で甘ったるさだけが脳みそに纏わりついた。

どれくらい過ごしただろう。

空が茜色だったから恐らく明け方か夕方だったんだと思う。

どうやって住所を知ったのか、彼女が俺の家に訪ねて来た。

リビングのソファーに僕らは向かい合って座った。

スクールカバンと制服姿に不釣り合いなほど彼女は大人の顔をしていた。

「なんで、あんなことしたの?」

彼女はかわいそうなものを見る目でそう言った。

なんで…?

お前のせいじゃないか。

彼女の憐れむ表情が許せなかった。

お前だってお前だって。

自分の中で何度も同じ言葉がぐるぐるまわった。

ここ数日で冷え切っていた血管は沸騰しそうだった。

「…人殺しのくせに。」

「え?」

「お前だって、お前だって人殺しだろ!この人殺し!人殺し!」

堰を切ったように言葉が頭から流れ出した。

止められなかった、彼女への怒りを抑えられなかった。

気が付いた時には彼女は目の前から消えていた。

座っていたソファの横にはスクールカバンが残っていた。

忘れていったんだろうか。

俺はもう躊躇わなかった彼女のカバンの中身を暴いてやろう。

そこでカバンのサイドポケットを開くと、そこからは大量の茶封筒が出てきた。

信じられなかった。

念のため中身を確認したがあの短冊と全く同じ内容が書かれていた。

彼女が秘密を託したのは俺だけじゃなかったんだ。

俺は怒りでしどろもどろになりながらカバンのファスナを開いた。

言葉を失った。

そこには大量のチュッパチャップスが詰め込まれていた。

「なんで……」

俺は彼女に何をさせてしまったのか悟った。


俺はカバンを持って家を飛び出した。

外は明るくなり始めていた。

彼女が俺の家を出てからどっちに行ったのかわからない。

とにかく走った。

何度目かの角を曲がったところに彼女はいた。

まだ間に合う俺は彼女の背中めがけて走ってその勢いのあまり、彼女に突撃した。

世界が三回半回った。

道の真ん中に転がった彼女の短い髪が蜘蛛の巣みたいに地面に這っている。

カバンの中身は地面にぶちまけられていた。

「さっきはごめん。カバン忘れてたよ。」

隣に転がる俺は謝罪した。

「よかった、猫はまだ死んでなかったみたい。」

彼女はチュッパチャプスを拾って舐め始めた。

彼女の幼い八重歯を俺は久しぶりに見た。

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