「帝国の墓場」シチリア
※トップ画像はGulio Parigi「iron hand」(1599-1600)Wikipediaより
※引用文のうち、()内は記事編者の補足、[]内は文献訳者による補足。
イタリア半島南端に位置するシチリア島は風光明媚な島であり、世界中から多くの旅行者が訪れる人気の観光地だ。だが、この島は古代において幾つもの勢力がその支配権を巡って争った屈指の要衝であり、地中海世界における「帝国の墓場」とも呼べる島だった。
この美しい島に秘められた熾烈な覇権争いの歴史を紐解く事で、この島を求めて争った多くの国や人間達の興亡を見ていきたい。
シチリアの繁栄と入植者
地中海のほぼ中央に位置するシチリア(シケリア)は古代地中海世界における交通の要衝であると同時に肥沃な土地を持つ穀倉地帯でもあった。紀元前8世紀頃には人口増加と耕作地の不足に悩まされていたギリシア(ヘラス)人達はこの魅力的な島への入植を積極的に進め、特にその中心的な存在として繁栄したのがシュラクサイ(シラクサ)であった。
紀元前733年にコリントスとテネアからの入植者によって建設されたシュラクサイは先住民であるシケロイ人(シチリアの由来となった民族)を征服してギリシア世界においてスパルタに次ぐ領土を誇るポリスへと発展した。
ギリシア人の入植が進む一方、西部にはカルタゴからフェニキア人が入植してパノモルス(現在のパレルモ)やモテュア(現在のモツィア)を拠点とした。ギリシア人とフェニキア人は地中海世界におけるライバル関係にあり、以後ローマが台頭するまでの間、両民族がシチリアを巡る戦いの主役となる。
アテナイ遠征軍の壊滅
前460年に始まったペロポネソス戦争により、アテナイを中心とする「デロス同盟」とスパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」はギリシア世界の覇権を賭けて激しく争った。
長期化して出口の見えない戦争に終止符を打つべく、アテナイは名門貴族の出身で雄弁家のアルキビアデス主導の下シチリアへの遠征へと傾いていく。
領土紛争を抱える同盟国セゲスタを救援するというのが大義名分だったが、真の狙いは豊かなシチリアを征服する事によってペロポネソス同盟に対して優位に立つ事が目的であり、アルキビアデスは以下のように遠征の正当性を市民に訴えた、シチリアの重要性を伺せる。
こうして前415年、アテナイは穏健派の指導者だったニキアスの反対を押し切る形で遠征を決定し、アルキビアデスとニキアス、ラマコスの3人を司令官としたアテナイとその同盟軍から成る100隻以上の戦闘艦と5000以上の重装歩兵を中心とした遠征軍がシチリアへと送り込まれた。その後※1.アルキビアデスが離脱し、ラマコスが戦死した事で遠征軍はニキアス一人が統括する事となった。
戦闘は当初遠征軍の優位に進んだが、スパルタが寝返ってきたアルキビアデスの献策によってシュラクサイに援軍を派遣すると戦況は一変し、作戦継続が困難になった遠征軍は撤退を決定したが、撤退の際に月食が起こり、迷信深いニキアスがこれを不吉として撤退を延期したために脱出の機会を逃した遠征軍は前413年に包囲されて降伏した。
ニキアスは処刑され、捕虜となった7000以上の将兵は石切場に収容されて劣悪な環境で多くの犠牲者を出した末に奴隷として売られるという悲惨な末路を迎えた。
シケリア遠征の失敗によって多くの船舶と将兵を失った事がペロポネソスでの敗北とそれによる「アテナイ海上帝国」の崩壊へと繋がり、シチリアを足掛かりとしたギリシア全土の支配という壮大な野望の大きする代償となったたのであった。
カルタゴの栄光と挫折
フェニキア人の都市国家カルタゴは地中海各地に勢力を広げ、前5世紀頃には「帝国」とも呼べる程の一大勢力圏を築き上げた。カルタゴにとってペルシア等との交易路を確保するための重要拠点だったシチリアは、ギリシア人勢力とその支配権を巡って争う重要な戦場でもあった。
前480年、シチリアではシュラクサイの※2.僭主ゲロンが大きな勢力を誇り、これに危機感を抱いたカルタゴはクセルクセス一世によるギリシアへの侵攻に乗じる形で30万ともされる大軍を動員してシチリアへと侵攻し、ヒメラの地でゲロンと決戦となった。結果はカルタゴ軍の惨敗であり、多くの将兵と船舶を失ったカルタゴの勢力は一時的に退潮する事となる。
その後、力を取り戻したカルタゴは前410年には再びシチリアへと進出し、シュラクサイと並ぶ有力都市だったアクラガスを破壊してギリシア人勢力を圧倒したが、その後反撃に転じたシュラクサイの僭主ディオニュシオス一世との間で激しい戦いが繰り広げられた。
カルタゴは苦戦を強いられ、前398年には古くからの拠点であったモテュアが破壊され、その翌年にはペストの蔓延もあって軍は壊滅的な被害を出した。この惨状が知らされたカルタゴ本国の市民達の嘆きは以下の様だったという。
海上交易を柱とするカルタゴにとってシチリアの帰趨は死活問題だったが、その維持のために支払わされる代償は決して小さくなかったのである。
さらに前310年にはシュラクサイの僭主アガトクレスがアフリカに上陸してカルタゴ本国へと侵攻する事態にまでなり、ローマに敗れて海上覇権を喪失するまでの間、カルタゴはシチリアにおいて幾度となく辛酸を舐め続ける事となったのである。
ピュロスの苦闘
前278年、ローマとの戦いで名を馳せたエペイロス王ピュロスがカルタゴ追放を望むギリシア人達からの要望に応えてシチリアへと上陸した。ピュロスは妻だったアガトクレスの娘との間に息子を儲けていた事もあり、カルタゴ軍に包囲されて窮地に陥っていたシュラクサイの人々から「シシリアの王」と呼ばれて歓迎された。その支持を梃にカルタゴの勢力圏を攻撃して各地の反カルタゴ勢力を糾合しながら進撃し、重要拠点だったエリュクスを自ら先頭に立って攻め落とした。また、カルタゴの同盟者であり、ギリシア人を苦しめていた※3.マメルティニへの攻撃も行い、年貢を巻き上げていた徴税人を処刑する等してシチリア内での支持が集まるよう努めた。
エリュクス制圧後もピュロスの攻勢は続き、パノモルスも陥落して残る拠点はリリュバイオンのみとなった。カルタゴは講和を求めたが、ピュロスがシチリア全土からの撤退を要求したために交渉は決裂し、リリュバイオンへの攻撃が開始された。しかし、カルタゴ軍は海路で大量の兵員と物資を輸送して守りを固め、飛び道具によってピュロスの軍勢は大打撃を受け、二か月に及ぶ戦闘の末に包囲を解かざるを得なかった。海軍力の不足に悩んだピュロスはシチリアの諸都市から船の漕ぎ手を大量に徴用したが、この負担に耐えかねた諸都市からの反発を受けて支持を失い、ローマとの戦いを理由に再度イタリアへと転進する事となった。この際、ピュロスは以下の言葉を残したとされ、ピュロスがいかにシチリアで難儀したかが伺える。
前276年にシチリアを後にしてイタリアへ向かったピュロスだったが、その最中にカルタゴ海軍の攻撃で大きな損害を出し、さらにイタリアへと先回りしたマメルティニの攻撃を受けてピュロス自身が負傷するほど激しい戦闘となり、辛うじて退ける事に成功したのであった。
当初はギリシア人勢力の外敵であったカルタゴからの解放者として歓迎されながら、彼らの支持を失い大きな痛手を被りながら撤退する羽目になったピュロスの顛末は、シチリアにおける外部からの干渉に対する期待と敵意を端的に表していたと言える。
「覇者」ローマへの抵抗
ピュロスを退けてイタリアを統一したローマはシチリアを挟んでカルタゴと対峙する事となり、前264年にローマがシュラクサイと戦っていたマメルティニからの救援要請に基づいてシチリアに派兵した事で第一次ポエニ戦争が始まった。この戦争に勝利したローマはシチリアを最初の属州とし、地中海覇権に大きな一歩を踏み出した。
その後前218年にハンニバルがローマへの侵攻を開始して第二次ポエニ戦争が勃発すると、シチリアは再び戦禍に見舞われる。
前214年、シュラクサイはハンニバルの説得に応じる形で全シチリアの領有を条件に同盟を結び、その後内紛による混乱が続いたが、最終的に反ローマ派が勝利してカルタゴとの共同戦線を張る事となった。
シュラクサイの離反に対して「ローマの剣」の異名を持つ猛将マルクス・クラウディウス・マルケッルスが派遣されてシュラクサイを陸海から攻めたが、城壁の厚い守りに阻まれて攻囲は難航した。この時シュラクサイの防衛で活躍したのが数学者アルキメデスであり、様々な兵器を発明してローマ軍を苦しめ、中には船を持ち上げる巨大なクレーン(トップ画像を参照)や反射鏡を利用した熱光線装置まで発明したとされる。
しかし、ローマ軍はマルケッルスの指揮下で粘り強く戦い、1年以上に及ぶ攻囲の末にシュラクサイを陥落させ、ハンニバルの戦略的優位を突き崩す事に成功したのであった。
マルケッルスは膨大な戦利品を抱えて凱旋し、ローマ人達はシュラクサイの豊かさに目を見張った。後に詩人ホラティウスが「征服されたギリシアが、野蛮な征服者を虜にした」と形容するギリシア文化に対する傾倒の道が開かれたのであり、ローマ人にとってそれほどまでにシチリアは魅力的な土地だったのである。
第二次ポエニ戦争終結後もシチリアはローマの重要な属州であり続けたが、豊かな土地であっためにローマ人の搾取は苛烈を極め、前135年と前104年には大規模な奴隷反乱が勃発し、いずれも鎮圧に数年を要する程の激しい抵抗となった。
富と戦争、シチリアはローマの覇権を象徴する島だったのである。
共和政の墓標
前44年3月15日、ポンペイウスとの内乱に勝利して事実上の独裁者として君臨していたユリウス・カエサルが共和主義者達に暗殺された事でローマは再び内乱へと陥る事になった。
カエサルの後継者を自認するオクタウィアヌスはマルクス・アントニウス、マルクス・アエミリウス・レピドゥスと結び国家再建三人委員(第二回三頭政治)を結成して※4.プロスクリプティオを布告し、共和主義者に対する容赦のない粛清を実行した。
前42年にカエサル暗殺の主犯であるマルクス・ブルトゥスとガイウス・カッシウス・ロンギヌスがフィリッピの戦いに敗れた後、プロスクリプティオ対象者達の主な避難場所となっていたのがシチリアであった。もはや三人委員に抵抗できるのはシチリアを支配していたポンペイウスの遺児セクストゥス・ポンペイウスだけであり、シチリアはいわば共和政ローマ「最後の砦」でもあった。
オクタウィアヌスはセクストゥスの討伐を試みるが、強力な海軍の前に敗北を喫し、さらに海上封鎖を実施されてローマが食糧難に見舞われた事で講和へと追い込まれた。前39年にミセヌムでオクタウィアヌス、アントニウス、セクストゥス三者の間でプロスクリプティオの解除を含む協定が結ばれたが、この和平は長続きせず、翌年には三人委員とセクストゥスの戦闘が再開された。当初苦戦を強いられたオクタウィアヌスだったが、アントニウスからの増援と腹心マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの活躍によってセクストゥスを打ち破った。同時に不穏な動きを見せたレピドゥスを失脚させる事にも成功したが、それまで目立たない存在であったレピドゥスが急に野心を現したのは、シチリアを手に入れる事で主導権を握れると信じたためであろう。彼もまた、この豊かで重要な島に魅入られ人間の一人だったのだ。
敗れたセクストゥスは東方へと脱出したが、ミレトスの地でアントニウス配下の将軍、マルクス・ティティウスに捕らえられて処刑された。ティティウスの父はプロスクリプティオの対象になりながらもセクストゥスに保護され、彼自身も助命された経緯を見れば皮肉な結末としか言いようがない。
内乱の最終的な勝利者となり、「アウグストゥス(尊厳者)」と名乗ってローマを共和政から元首政(帝政)へと移行させたオクタウィアヌスはシチリアでの戦いを以下のように総括し、自身の功績を誇示した。
「海賊」と「奴隷」、それがセクストゥスと彼の軍勢に対する呼び名であった。だが、彼らは恐怖と暴力でローマを支配した三人委員に対する最後の抵抗勢力であり、プロスクリプティオの対象者達を保護してその帰還に尽力した事を見れば、一時的にせよ共和政ローマの擁護者でもあったのだ。その敗北とレピドゥスの失脚がオクタウィアヌスとアントニウス両雄の直接対決という内乱が最終段階へと移行する節目となった事を見れば、シチリアは共和政ローマの「墓標」とも呼べるであろう。
ディオドロスとピンダロスの想い
シュラクサイを中心としたシチリアにおける覇権争いの歴史を通して多くの勢力が興亡する様を見て来たが、それは無数の人間達が抱いた夢と希望、絶望と悲哀の歴史でもあり、この島はかつてそうした無数の人間達の想いが交差した島だったのだ。
シチリア出身の著名人にアレクサンドロス大王の活躍を含めた『歴史叢書』を著した前1世紀の歴史家ディオドロスがいる。その歴史叙述は勝者だけでなく敗者や戦いに巻き込まれた非力な犠牲者達にも寄り添った視点が特徴とされ、そこには内乱に巻き込まれて荒廃した故郷の姿が影を落としているようだ。幾度となく戦場となり、大国の争いに翻弄されたれ続けた故郷の歴史を思ったからこそ、その影で犠牲となった人々の事を想い、敗者や弱者にも目を向けたのだとすれば、ディオドロスこそがシチリアの混迷を極めた歴史を体現した人物と言えるのではないだろうか。
本記事は前5世紀の詩人ピンダロスが詠んだ一節で締めたい。自身の保護者であった僭主ヒエロンを讃えた詩からは、古代の人々がシチリアという島に抱いた夢や希望が感じ取れるだろう。
もしこの島を訪れる機会があったら、その時はかつてこの島に立った古代の人々が何を思っのたかに思いを馳せて頂けたら幸いである。
ご拝読ありがとうございました。
注釈
※1.アルキビアデスが離脱・・遠征軍の出発後にアテナイ市内でヘルメスの神像が破壊される事件が起こり、その嫌疑をかけられたアルキビアデスは訴追を恐れて逃亡した。
※.2僭主・・・古代ギリシアにおいて非合法に権力を握った独裁者。
※3.マメルティニ(軍神マルスの子ら)・・・アガトクレスの死後、彼に雇われていた傭兵達がメッサナ(現在のメッシーナ)を占拠して独立した武装集団。乱暴狼藉の限りを尽くすならず者の集団でもあった。
※4.プロスクリプティオ(追放公告)・・・対象者の財産没収と死刑を意図した告示。ルキウス・コルネリウス・スッラが恐怖政治のために布告した前例に倣って実施された。
参考文献
・ディオドロス(森谷公俊訳・註)『アレクサンドロス大王の歴史』(河出書房新社)
・塚田孝雄『ギリシア・ローマ海賊綺譚』(中央公論新社)
・ポール・カートリッジ(新井雅代訳)『古代ギリシア 11の都市が語る歴史』(白水社)
・トゥキュディデス(小西晴雄訳)「歴史」(筑摩書房)
・ポンペイウス・トログス、ユスティヌス抄録(合阪學訳)『地中海世界史』(西洋古典叢書)
・スエトニウス(国原吉之助訳)『ローマ皇帝伝』(岩波文庫)
・ポリュビオス(城江良和訳)『歴史2』(西洋古典叢書)
・栗田伸子、佐藤育子『興亡の世界史 通商国家カルタゴ 』(講談社学術文庫)
・プルタルコス(柳沼重剛訳)『英雄伝3』(西洋古典叢書)
・ディオドロス(今居歴史資料館訳)『歴史叢書』(http://history.soregashi.com/diodoros/index.html)