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第十三条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

【日本国憲法より】

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 数ヶ月前だったか、テレビに「千鳥の幸せ家族」という番組が流れていた。幸せハッピーな家族のいくつかを全国各地に取材したVTRを、お笑いコンビの千鳥とゲストがスタジオで観ていた。

 その様子を眺めているうちに、ふと違和感を感じた。一瞬の推察ののちにその不快感の正体がわかる。全部で6組くらいだろうか? 登場した一家すべてに子どもがいたのである。ただ、実際にはチャンネルを回しながら、途中をちょこちょこ観ただけなので不確かなものの、子どもがいる家族しか取り上げていなかったと思う。そのような内容構成から、ある種の不合理なメッセージを受け取る人もいるかもしれなかった。すなわち、「子どもがいなければ幸せであり得ない」というメッセージを。


 さて、私達が生きるこの社会にはさまざまな『べっきーさん』がいる。

 べっきーさんとは、人々の間に根強く息づく「~すべき」や「~であるべき」という暗黙の命令のことだ。誰が下したのかも、誰が従うのかも知れないが、このような数多の要求が確かに存在しており、これら社会からのオーダーが生活に影響を与えることも少なくない。

 上の番組から発信され得る「幸せな家族には子どもがいるべき」という考えも、その一つである。例を挙げれば他にも、

「結婚すべき」

「子どもを産むべき」

「健康であるべき」

「就労すべき」

「健常者であるべき」

「自己責任であるべき」

「普通であるべき」

「死なないべき」

等々……エンドレスである。


 いずれのべっきーさんにしろ、そのベースにあるのは「そうでなければ幸せであり得ない」という偏見であろう。そして、もう一歩斬り込めば、それらの偏見を根底から支えるのは「人は誰しもが幸せであるべき」というさらに強大な偏見だと思われる。
 すなわち、「幸せでなければならない/幸せを求めなければならない」といった最上級の法が一切のべっきーさんの奥底に存在しはしないか。


 けれど。

 けれど、私は直感する。

「幸せを求めない自由がある」と。


 直感というものは本質的にしなやかだが、同時に無防備でもある。だから、今日はこの直感を説明によって補強してみたい。


 まず、「幸福追求権」という言葉を誰もが一度は耳にしたことがあるはずだ。この権利とは、冒頭の日本国憲法第十三条における「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」のことである。そう、私達には幸せを求める権利があるのだ。

 では、次に「権利とは何か」を掘り下げてみよう。(以下、広辞苑第六版より)


けん-り【権利】
①[荀子(勧学)]権勢と利益。権能。
②〔法〕(right)
 ア 一定の利益を主張し、また、これを享受する手段として、法律が一定の者に賦与する力。「━を取得する」
 イ ある事をする、またはしないことができる能力・自由。「他人を非難する━はない」⇔義務。


 この話の「権利」とマッチする意味は②のイだ。その記述によると、「ある事をする、またはしないことができる能力・自由」と記されている。つまり、「~する権利」とは「~する自由、あるいは~しない自由」であると理解できる。

 幸福追求権は決して義務ではなく、あくまで権利だ。だから、同じことがいえる。この権利は幸せを求める自由であると同時に、幸せを求めない自由でもあるのだ。

 したがって、人は誰もが幸せを求めてもいいし、また、求めなくてもいい。


 ここまで「幸せを求めない自由」のサポートとしての論理的な説明を試みた訳だが、そもそも、このような理屈立てた講釈は不要な感が湧き上がる。

 第一、幸福の追求が万人の背負う義務であれば、生きることがより一層苦しいだけである。そのことはほとんどすべての人が直感的に理解している気がする。

 幸せの定義にもよるが、ここでは仮に「幸せ=満足すること」と意味付けよう。満足することはこのうえなく大変である。なぜなら、人は相応の代価(時間、金、労力 等)を費やさなければ満足できないからだ。

 満足を求めることができる人はいい。満足するのに、幸せであるのに越したことはないのだから、好きなだけ、好きなように求めればいい。しかしながら、この社会にはそれができない人が数多いのではあるまいか。満足を求め得ない人とは平たくいえば、「必要最低限の生活をするだけで限界な人」だ。かくいう私もその一人である。

 最低限の生活だけで精いっぱいな人にとって、幸せを求めることはほぼ不可能に近い。幸せを、満足を得るべく費やす代価がないのだから。故に幸せの追求を強いられることは苦痛でしかない。それにも関わらず、悲しくも、この社会の真底には「幸せでなければならない/幸せを求めなければならない」という絶対的な偏見があって、その偏見に基づく差別に苦しむ人が絶えない。


 けれど。

 けれど、私は何度でも書く。

「幸せを求めない自由がある」と。


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*以下、ある高校の福祉の授業より


授業者

『すべての人に幸福追求権があります。

 この権利は「幸せを求める自由」であると同時に、「幸せを求めない自由」でもあります。

 だから、人は皆、幸せを求めてもいいし、また、幸せを求めなくてもいいのです。』


【 お し ま い 】





私が自殺を遂げる前にサポートしてほしかった。