共約不可能性:同じ物差しでは測れないこと/同じ言葉でも意味が異なること
「同じ物差しでは測れないこと/同じ言葉でも意味が異なること」を『共約不可能性』という。(本文より)
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例えば 冬本番の1月、テレビ中継で新宿駅前に立ったリポーターが満面にどや顔を湛(たた)えつつ、
「東京で雪が積もりました!!」
と伝えるのを見て、雪国の人は大抵こう思う。
「はぁ?(*゚∀゚)=3 どこが?」
「こんなの雪が積もってないどころか、降ってすらいないじゃん。(-_-#)」
と、地味に苛立ちながら思う。
確かに東京都民にとっては道路がもこもこと白く綿毛立ったくらいでも「雪が積もった」のかもしれないが、雪国民にすれば積雪が1m以上で初めて「雪が積もった」といえる。
この話で確かめたいことは、積雪の程度を捉える感覚的な物差しが都民と雪国民とでは異なるがために その程度を互いに同じ物差しでは測れないことだ。
また例えば、私の祖母はぷっくりと体格のよい人を目にすれば躊躇もなしに、
「太ってらことぉ。(地元の方言で「太っていることね。」という意味)」
という。誰にでもいう。私の従兄弟にも、テレビによく映るマツコ・デラックスにもいうし、幼い頃の私についても、「太ってらったなぁ。(同じく方言で「太っていたなぁ。」)」と目を細める。
「太ってる」といわれたら傷付く人も多いだろうが、祖母の言葉に悪気は全くない。なぜなら、彼女にとって「太る」とはよいことだからだ。一般に持たれがちな悪い意味合いはない。
というのも、祖母は御歳9X歳で戦争経験者だ。彼女いわく「皆貧乏だった」あの戦中・戦後の時代、「太る」とは豊かさの象徴だった。故に祖母のいう「太ってらことぉ。」の真意は「食べるものを毎日たくさん食べていて、元気そうで何よりね。」というニュアンスだ。すなわち、相手の健康無事に安堵を示す、実にポジティブな一言なのである。
ここまでの2つの例のように 物差しや言葉を用いる背景によって、「同じ物差しでは測れないこと/同じ言葉でも意味が異なること」を『共約不可能性』という。
ここでいう背景とは実に多様で、物差しや言葉を用いた人の thinking frame(=考えの枠組み)から、その用法の後ろにある理論体系、文脈/状況、社会的/時代的な背景までさまざまである。
「要は人の考え方や文脈によって、同じ尺度や言葉でも意味が変わるってことよね。そんなことは誰でも知ってる常識。当たり前よ!」
という感想はごもっとも。けれども、その当たり前を改めて意識することが生活のなかで役立つケースもある。
その例を1つだけ挙げて、この話を終えよう。
例えば、君がある人と交際中で互いに結婚を意識しているとする。ある日突然、パートナーが君に尋ねる。
「私を愛してる?」
と。君はもちろん、
「愛してる。」
と答えるだろうが、相手はそれを聞いてもなお不服そうだ。
このとき、共約不可能性をヒントに相手が納得しない理由を推察してみると、次の可能性が浮かんでくる。
【同じ「愛してる」という言葉でも、君とパートナーではその意味が異なっていて、君の行動がパートナーの「愛してる」の基準を満たしていないため】
そこで仮に、君の thinking frame における「愛してる」の条件を次の4つとする。
□同居していること
□週に1回、デートをすること
□自分達の子どもの名前を考えること
□パートナーを友人に紹介すること
そして、君の行動はこれらをすべてクリアしているとしよう。しかし一方で、パートナーにとっての愛の定義は…
□家事を分担すること
□互いの給与明細書を見せること
□避妊を徹底すること
□双方の親に挨拶すること
であって、君のアクションはいまだにそれらを何一つ達成していないのかもしれないのだ。
【 お し ま い 】
私が自殺を遂げる前にサポートしてほしかった。