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南東スラウェシ州の旅 4日目 ブトン島のバウバウへ 砦めぐり

土曜の授業に合わせ金曜日のフライトでジャカルタに戻ろうとしたが、満席で取れず旅を続けることになった。

日曜日の授業はオンラインというし、翌週は授業がないので、初日とはいえたった1日のために戻るのはバカバカしいと思っていた。
チケットがないのはいい理由になる。

先生といつも連絡してくれるスタッフにはメールで連絡を入れておいた。

そういうわけで、旅をしばらく続けることになったので、グンダリに戻るのはやめ、ブトン島に向かうことにした。


朝のジョギング

昨日はツアーに参加するからと思ったのか、朝6:30に気を利かせて朝食を持ってきてくれたので、走りそびれていた。
なので、今日は6時前に走り出そうと早起きして無事走れた。
海岸伝いに海上に道があり、一周2.5キロほどの周回コースができている。

ここを5周する。
走っている人は1人だけ、ウォーキングが4人、服装とサンダル履きからただの散歩と思われる人が6人。

浜風が強いが、走りにくいというよりは涼しく感じられて良い。
そのおかげもあって、蒸し蒸しなのにそれほどきつく感じなかった。曇りなのも幸いした。

ホテルの屋上からコースを眺める

ブトン島バウバウ港への船

出発時刻を宿で確認したら、11:30頃になると知り合いに連絡して調べてくれた。いつクンダリを出発したか分かれば、大体到着時刻を予想できるのだ。
果たして、船は11時半に海上に現れた。
定刻の1時間遅れだ。

そして11:45に出港した。
わたしはわたしの席ですっかりくつろいでいる乗客をどかし、一息ついた。

わたしの席はExective No.1なのだが、とてもエグゼクティブ席には見えない。
ただの普通指定席だからあたりまえなのだが、正直少し期待していた。

席の前は荷物置き場と化し、隣の女性は靴を脱ぎ足をさすりながら、スマホから音を出し動画を見ている。
スーツケースの横にある黒いポリバケツはゴミ箱

島と島の間の海峡を通るため、波は穏やかで全く揺れない。
電波もわりかし飛んでいる。

3時間ほどでバウバウ港に到着した。バウバウの町は晴れており日差しがきつい。空と海はとても青い。

バウバウ港

砦めぐりをする

バウバウの砦は、インドネシアでもっとも評価されているベンテン(インドネシア語で砦の意味)なので、楽しみにしていた。
宿に荷物を置き、オジェックと価格交渉する。
バンドンの倍くらいする。とても高い。
わたしが高すぎなんじゃないのかとクレームを入れていたら、小さい声で「バンドンと比べられてもな」と小言を言っていた。

とりあえず、1番上にある砦まで片道2万ルピアで頼んだ。

(1) バアディア砦

王様の本城から見て南側、尾根伝いに1.5キロほど登ったところにある。
解説がないので不明ながら、防御の1番弱いところを補強するためだったんじゃないかと思う。
大坂城でいう真田丸的な位置づけだ。大坂城の唯一の弱点が上町(うえまち)台地から攻撃されるところで、大坂冬の陣も夏の陣も、家康は南側に陣をしいて攻撃している。

正門

沖縄のグスクのような石灰岩を積みあげているので、グスクを見ているかのようだ。
曲線ではなく直角なのが違うくらい。

規模といい保存状態といい素晴らしい。
沖縄のグスクは有名どころはすべてまわったが、わたしの最も好きな今帰仁城(なきじん)に匹敵するレベル。

海を望む

(2) 博物館

閉まっていた。

博物館の外観

何か他に砦跡とかあるんじゃないかと探したが、何もなかった。
古い伝統家屋が一つあるだけだ。

(3) ブトン砦

いよいよ本城に向かう。
行きしにそびえ立つ城壁を見て、砦じゃない、これは城だと認識を改めていた。

まずは南側の防御となる城壁が現れた。
堀を設けていたとしても貧弱。
厚みはあるが高さが足りない。
こちらからの攻撃をあまり想定していなかったのかも知れない。

ここを抜けると城域内に入る。
しばらく進むと、第32代スルタンの住居カマリ•バタがある。バタというのは、セメントや粘土の意味で、この住居は粘土の屋根瓦を使っていたため、このように呼ばれるようになった。

早速内部を見学させてもらおうと、階段に座っていた女の子に声をかけると、何か様子が変で、年配の女性を呼んで来た。

どうやらこの家に住んでいるらしい。中を見ると、鍋やら食器など家財道具が見えたので、入るのは遠慮した。

2003年から住んでいるそうで、どうして住み始めたのか聞いたら、お父さんの家だったというではないか。
お父さんはスルタンということかと念のため聞くと、そうだという返事だった。
王家の子孫がこんな庶民的な生活をしながら、まだ先祖の家に住み続けているとは、感慨深かった。

ここからちょっと離れた場所に、同じような大きさで、若干あたらし目の伝統家屋が見えたので、行ってみた。

カマリ•カラ
こっちは4階建て

カマリバタより30年ほど新しい。築100年弱
ここにも人が住んでいる。
もしやスルタンの子孫かと聞いたら、
スルタンの孫娘の家だった。
先ほどの年配の女性の娘さんにあたる。

娘のいとこ一家も住んでいるようで話をした。

さらに奥に進む。
海側に向かっているので、奥というより正面に向かっているというのが正しい言い方だ。

大きな広場に出た。
モスクと巨大な集会所が建っている。
小山があり、頂上に石棺が見える。

屋根の上には王家のシンボルマークの龍がついている。

龍ということは中国と関係しているのかと思ったら、特に関係ないようだ。
王家の先祖は、マレー系商人の4家族が渡来したと書いてある。ブトン人の王ではない。

あとは旗を掲げる竿が昔から残っているものだ。

鉄塔に見えるが、木の棒を支えているだけ

王位継承に使う岩、ポパウアストーン
この石の窪みに傘を立て、王位を渡す方と受ける方が、傘を回すと説明が書いてあった。

見えにくいが、真ん中に窪みがある

さらに進むと、長大な城壁に出る。

城の外側

この城は列強諸国が作ったのではない、インドネシア人が作ったところが素晴らしい。
1645年には完成していた。

周囲2740メートル、12の門と16の砦がある。
砦というのは、下の写真のような突出した区画を指す。

貿易の中継地として栄えてはいたが、弱小な地方都市に過ぎなかったバウバウに、なぜこんな巨大な城が必要だったのか。

常にマカッサルのゴア王国、テルナテ王国、ポルトガル、オランダから狙われていたので、攻撃する気を無くさせるくらいの巨城が必要だったのだろう。
海賊行為も当時はよくあったらしい。

まっすぐに伸びる巨大な城壁は、海からはっきり見えただろうし、むしろ見せつけようとしたのかも知れない。
こんなのが見えれば、襲う意欲を失うだろう。犠牲が大きすぎる。

日本でもそうそうお目にかかれない素晴らしい城郭を見ることができ感動した。

夕食はやっぱりシーフード

バウバウの名の由来は諸説あり、一つはbauバウ=臭う。魚臭い町だったからと言われている。
そうであれば、魚を食べないわけにはいくまい。
わたしはネットで庶民派かつ評価が高めの店を探し出し、早速行ってみた。

期待通りの店構えで、客も持ち帰り客中心に賑わっている。

わたしは今回はイカの丸焼きにした。
カンクン(空芯菜)炒めと、ナシバカールも付けた。

これにアイスティーをつけ、しめて400円

イカの丸焼きなんていつ以来だろう。
少し強めの塩だが、美味しい。
ライムをたっぷり絞って食べた。

ナシバカールは珍しくモチ米だった。

宿に戻り水量の弱い水シャワーを浴び、洗濯をして寝た。











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