時空を越える祈りの届く先 『平家物語』

 日本全国の小学4年生が国語でほぼ必ず学ぶことになる国民的国語教材『ごんぎつね』。語り手(”わたし”)の伝聞であることを明示する書き出しに始まるこの物語は、若くして母を亡くした人間”兵十”といたずらぎつねの”ごん”による徹底したすれ違いを描く。ごんの命が消えるその瞬間に、もはやインターネットミームと化した兵十のあの台詞が語られる。命と引き換えに解けた誤解。そしてごんは物語の語り手によって、集落でその名を語り継がれることになる。


 時代物の難しさはどこにあるのだろうか。「歴史」という超弩級のネタバレをものともしないしなやかで強かなシナリオを書き上げなければならないことだろうか。膨大な史料から連綿と積み上げられた遠大な歴史解釈に基づいた時代考証だろうか。

 私の仕事に引き寄せて考えてみる。俳句、短歌、枕草子から近代文学まで。小学校であっても、文学の歴史についてはかなり幅広く学んでいる。そこで何を学ぶのかといえば、実際そんなに難しいことではなく「ああ、何百年も昔から、人はその時の思いを、願いを、心の動きを、言葉に落とし込んできたんだな」ということであり、言ってしまえば実はそれだけのことをやるために「春は曙」とか「五月雨を集めて」言うてるわけである。
 というのはちょっと乱暴にしても、人がなぜ言葉を紡ぎ、物語を綴ってきたのかについては、きっちり小学校で扱うことになっている。

 そんなわけで、アニメ『平家物語』である。当然、源平合戦のあれやこれやを平家側から描いた歴史物フィクションは多く、本作はそれをアニメで、ということだ。
 ここで、主人公あるいは語り手の”びわ”がいかなる役割を果たすのか、ということを考える。それは、小学校で人々が物語を紡いできた歴史を学ぶことと深く強く結びつき、現在を生きる私たちにとって何かしらの啓示をもたらすのではないだろうか。

 ”びわ”の存在は、『ごんぎつね』における”わたし”すなわち語り手に非常に近い。前者は物語の顛末全てを見届け、後世へと語り継ぐことを己が使命として生きていく決意をする。後者は集落で代々語り継がれてきた”ごん”の物語を後世へと語り継ぐ役目を負っている。
 ただ少し差異があるとするなら、びわは私たち視聴者に他ならない、という点であろうか。『ごんぎつね』自体が「集落で語り継がれてきた物語」としての形をとっているため、『ごんぎつね』の語り手は物語のバトンを私たち読者に”手渡してくる”存在になる。
 一方のびわは、明確に私たち視聴者そのものである。彼女の両目で見ることのできる「未来」と「亡者」は、平家の栄枯盛衰をすでに知っている私たちにも見えているのだから。だからこそだろうか。平家の没落が決定的となったタイミングで、彼ら彼女らの姿を語り継ぐことを決意し、びわは平家一門の元へ戻る。滅びゆく平家の悲しみ、哀れさ、惨めさ、だからこそ語ろうとするのは、もちろん平家側の視点で物語を追いかけてきたからに他ならないのだが、「祈り」をキーワードとすることで、後世に伝えるべき物語であるという決意はさらに強いものになる。


 人が生きて日々を重ねることで物語が生まれていく。その多くは後世に語られることのない物語なのかもしれないが、それでも他の誰かの物語と結びつき合い、溶け合い、混ざり合う。びわと平家が結びつき合ったように。ごんと兵十と”わたし”が混ざり合ったように。
 歴史物のフィクションから私たちは祈りを受け取る。あなたの物語を作っていってほしいという祈り。
 歴史物に限らないだろう。『ごんぎつね』の残した祈りもまた私たちに届いている。昔々、ごんといういたずらぎつねがおりました。火縄銃を打ち込まれてぐったり目を瞑るごんは、語り継がれてきた物語という形をとることによって、さらに時を超えて誰かの心の中で生き続けるのだ。
 びわ=私たちがいる限りは、平家もまたどこかで生きている。最終話ラストシーン、どこかで見たことのある人々が口々に「祇園精舎の鐘の声」と語ることが、祈りの証であろう。
 人が言葉を紡ぎ、物語を綴ることは、遠い未来への祈りである。このことを小学校の国語で扱えることを、我々教員は誇っていいような気がしている。