誰だって主人公でありたい 『オッドタクシー』
交錯というか錯綜というか。群像劇の面白さというか。そのあたりの感覚が緩やかに脳裏を走っていく。小戸川のタクシーのように緩やかに。無愛想で皮肉屋,毒舌タクシードライバー・小戸川が乗せる,一癖も二癖もある乗客達。あるいは道行く人々。やがてたった一人の行方不明者に繋がっていくその筋書きには,やはりハッとさせられた。
群像劇,と定義していいだろう本作。群像劇なので,登場人物全員から「主人公であろうとする」空気を感じた。バズって就活優位に立ちたい樺沢も,燻りポジションを脱したい漫才コンビ「ホモサピエンス」とアイドルグループ「ミステリーキッス」も。「医者ではなく友人として」と叫んだ剛力も,小戸川を救った白川も。婚活一発逆転狙いの柿花も。挙げるとキリがない。みんなみんな,自分の人生の主人公でありたい。ありたかった。自分の人生を輝かせ,何かを残せる,そんな主人公でありたかったのだろう。
そういう,主人公としての立身のドラマからぽつねんと距離を置くのが小戸川だったのではないか。いろんな人が乗り込むタクシーという乗り物の性質上,それぞれの人生の上澄みだったり氷山の一角に触れることはあれど,本質的なところ,心の奥底に近いところには決して触れない,触れられないポジション。故に,日常のあらゆる事象を何気なく通過していくことを繰り返す。その結果としての,ある種の諦観が小戸川を支配していたのではないか。「こいつらのようにはなれない or なりたくない or なれるはずがない」と。本編を通して流れるどこか潔い諦めの空気は,そもそも小戸川が「主人公でありたい」という自分との戦いから早々に降りていたことから発生する独特の臭気として,物語を覆っていたのだろう。
で,これが最終話で思いっきり反転する。全員の動物の仮面が一気に剥がれるのだ。仮面を引き剥がされた登場人物達の(こう言ってよければ)等身大の姿を切り取ったラストシーンのカット達。「自分たちはこうやって主人公になっていけるんだ。何か特別なことをしなくたって,主人公でいられるんだ」という希望に近い感覚。ずっとどんよりしていた画面の空気が,気がつくと最終話のラストだけは澄み切っていたように思う。
象徴的だったのは今井だろうか。彼は「面会できるアイドルって貴重じゃないですか」と言った。自身に降りかかった衝撃に屈するでも抵抗するでもなく,あるがままの姿勢で事実を受け入れることを選んだ。
一方,動物の仮面が剥がれてもなお,主人公でありたいとギラついていたのは三矢だった。小戸川のタクシーに乗り込み微笑む彼女の姿で物語の幕が降りるのは「私の物語は終わっていない」という彼女の宣言だったのだろう。まあ多分,続編はないんだろうけども。
じゃあ小戸川はどうなったのか,という話だけど,ラストシーン,車内での居眠りから目覚めた彼は「よしっ」と言う。もうこれに全て凝縮されているよなあ,と思う。あれだけの事件に巻き込まれた上に,自分の世界は一変してしまったわけだから「よしっ」な要素なんてないんじゃないか,と思うんだけども。でも「よしっ」なんだよな。これもまた,彼の宣言なんだよな,と思う。自分の人生を取り戻すこと。自分のささやかな人生の,ささやかな主人公になろうという宣言。そう解釈していいんじゃないだろうか。