不親切な親切さと対話の未来 『未来のモノのデザイン』
古来より、「フォロワーが勧めてきた本は即刻購入して読むべし」という言葉がある。ない。
先日Twitterのフォロワーから一冊の本を勧められたマエダは、そのままGoogle Chromeの新しいタブでAmazonを開いて当の本を検索し、「今すぐ購入」をクリックした。この間2分。翌日には発送通知が送られ、その翌々日に自宅に届いた。こんな調子で、「読もうと思っている本を置くスペース」に、5冊あったはずの本が9冊に増え、先日11冊になった。
本は、積んでおくだけで何だかいいパワーが溢れ出してくるので、積読は決して怠惰や時間管理の甘さや野放図な物欲と節制の欠如を意味しない。買って積む、という行為こそに大きな意味があるのだ。いや、ない。
そういうわけで、ドナルド・A・ノーマン『未来のモノのデザイン』を読んだ。以下のツイート群に対してこの本がおすすめだ、と教えてもらった。今まで意識してこういう本に触れてこなかったので、ちょっと読んでみようと決断した。
「生き物と機械の違いについて考えてみましょう」みたいな課題で、生き物は唯一無二だが機械は全く同じものを製造できるので、みたいな話についてはちょっと首傾げなのである。そういう道徳の教材文があるのだけど。
— マエダ (@maedicrim) October 17, 2022
「今まで読んだことがなかったから」も「今まで似たような本をたくさん読んできたから」も、立派な動機として成立しうるのである。
人間と機械の自然な相互作用、あるいは対話について考える。インタラクション、直訳で相互作用である。ただ私は読んでいる間ずっと「インタラクション=対話」と読み替えており、まあそれでもなんとなくいいんじゃないかね、と思っている。機械との対話。あるいは自動車との。家電との。家との対話。
どんどん親切で、優しくて、易しくて、分かりやすい世界になってきている。それはそれで良いことなんだろうけど、一方で人間と機械の「自然な」インタラクションの機会が失われているのではないだろうか、というのも感じる。
Apple Watchは3本の中途半端なリングを表示して、私に「今日はあんまりアクティヴじゃないね。」と言ってくる。そんなわけでちょっとデスクを離れて職場内をうろついてみる。リングが伸びて円形を完成させるとApple Watchは「よく頑張りましたね、明日もこの調子。」とか言ってくる。これがインタラクションかと言われれば、そんな気がしなくもないけど、ただ機械の言うままに動いているといえば、そうだなあと思う。
アクティヴで健康的な人生を、という願いに寄り添ってくれる存在ではある。親切で、優(易)しくて、分かりやすい。けど、そんなに口うるさく頻繁にいろいろアドヴァイスしてくれなくてもいいんだよ、と思うことだって当然ある。
親切で優(易)しくて分かりやすいことだけが全てではないはずだ。不親切で厳しくて難しくて難解なこと。そこまで言わずとも、ちょっと解釈を挟む必要がある事柄にもう少し目を向けていく必要があるんじゃあないのかなと思う。道路を塞ぐ形でブロックが置かれているように見せる、錯視を利用した速度抑制の試み。二つのボタンを同時に、かつ押し続けないと動かない裁断機。適切な手順を踏まないとエンジンが始動しないレーシングカー。親切ではないし、易しくもないが、いずれも意味があることなので、これらは「不親切な親切さ」とでも呼べるのではないかと思う。その不親切さからきっとインタラクションや対話が生まれてくるのだ。
そんなことを思うと同時に、行き過ぎた親切と優しさと分かりやすさがいつしか機械を使う人間から主体性だったり目的だったりを奪い去っていくような気がした。目的は人間にあって、機械はどこまで行っても手段でしかない。手段であるが故に、そこにインタラクション、そして対話を求めていく必要がある。
……と、ここで差し込んでおきたいのが愛玩ロボットだったりロボット掃除機だったりの話だ。愛玩ロボットやロボット掃除機に、愛着や愛情らしきものを抱く事例はもはや驚くようなことではなくなっている。生物と無生物の間を往復する、何かしらの感情。人間の想像力の逞しさの成果なのか。デザインの勝利なのか。機械然とした見た目であっても、私たちは機械に対する愛着と愛情らしきものを発生させることができる。そんな現代は、きっと幸福な時代なのだろう。