【日記】授業、視点、『やまなし』、あるいは批評のこと
9月。私が担任する特別支援学級で、先行して『やまなし』を扱った授業をしました。そして先日、普通学級での『やまなし』単元が始まりました。単元は終盤に差し掛かり、その中の1時間が、国語教育研究団体の研究授業として公開されました。
懐かしい面々との再会があり、お世話になった退職校長のお話があり、改めて『やまなし』授業のことを考えました。そういう日記です。
『やまなし』、そして作者・宮沢賢治の生涯とその最期、賢治作品群のあれやこれや、そういった様々な視点から考えたことを統合しながら、最終的に「『やまなし』全体から自分が受け取った、作品としてのメッセージは何か」を深めていく、そんな授業です。
細切れながら参観し、考えたこと。
他者参照、主題、伝記、視点と批評。
一筋縄ではいかないこの宮沢賢治的小宇宙。あるいは小宇宙的賢治世界。
教科書には、『やまなし』本文の後に『イーハトーブの夢』と題された賢治の伝記が掲載されており、これも参照しながら『やまなし』の隠しもつメッセージを児童が自分の中に形成していくことになります。その伝記には、賢治の最期も書かれています。
『やまなし』では実が熟して木から落下した(果物として一種の死を迎えた)山梨が、最終的に川の生き物にとっての恵みになります。そのことは、教えを請いにきた者に対して病床から身を起こし、真摯に向き合って農業講義をおこない、翌日亡くなった賢治の姿と重なります。
『やまなし』の一場面と賢治の最期がこのように重ねて考えられると気づいたとき、児童にとってそれは天啓にも似たひらめきと感じられたことでしょう。「あの場面は、あの記述は、そういう意味があったのだ。」と膝を打つ思い。それはとても魅力的で抗い難い効力をもちます。
なので、参観した授業ではこの「自己犠牲」を大きなテーマとして捉える児童が多くいました。光村図書の意図としてもそれはあったのだろうと考えられます。ただ、少し視点が限定されている傾向はないだろうか、と考える自分もいます。
賢治は自己犠牲を中核にもつ人物だったのか。厳しい自然への眼差し、愛がそこにはきっとあったのではないか。そんな自然の中で生きることを選んだ人間としての在り方はどうだったのか。そういったことにも思いを馳せていける(視点を定めていける)ためには、どのような授業や単元のデザインが要求されるのだろうか。そんなことを考えていました。
この授業(単元)が最終的に目指すのは、「自分だけの『やまなし』解説書」を作ることでした。解説、要は批評なのだな、と私は解釈しています。
年間の指導計画では『やまなし』のしばらく後に、批評文「『鳥獣戯画』を読む」(高畑勲)があり、単元間の繋がりを意識したチャレンジングな計画があるのだと見ています。
では、「『鳥獣戯画』を読む」に目配せしながら『やまなし』を批評的に見ていくためにどうしていけばよいのか。
一つの解答として私が仮定できるのは、やはり“視点”です。
『やまなし』を、どこに立ってどの視点から眺めるのか。賢治の人生と重ねながら作家論的に見ていくこともできますし、賢治が向き合い続けた岩手の自然や農業、人々との生活から見ていくこともできます。5年生で学習した、やなせたかしの伝記も参照しながら論じることもできます。
小学6年生ともなれば、単一の作品(教材)だけを深く読んでいく段階から少し進んで、いくつかの作品や文章を比較参照しながら自己の考えを形成していくことを求められていると考えることができます。
複数の立場から複数の視点で眺めること。そのようなことを目指す授業を、自分もまたどこかでやりたいなと考えています。