学習塾でなく、非営利型一般社団法人をはじめたこと(2022年8月解体)
今回から、教育とアートについて連続的に投稿していこうかと考えている。仰々しいテーマだが、基本的には、自分自身の活動制作の理念と実践をまとめたものである。
まずは僕自身の話から現在継続しておこなっている社団法人の活動について話すことからはじめる。
いきなり自分の話で恐縮だが、僕は高校に入ってすぐ不登校になった。そのきっかけは色々あるだろうが、スポーツしなくなって、考える時間が増えたからかもしれない。何気なく受けている授業にも違和感を持つようになった。カリキュラム通りに授業するとか、テキストに書いていることを教えるとか、なんでやらなきゃいけないのだろうか。同級生は仕方がないからと言うし、本当におもしろいと思って授業を聞いている人がいるのか疑わしい。それだけでなく先生の方もおもしろいと思って教えているようには見えなかった。まぁ世の中そういうものだと我慢しながら教えているようにみえた。
それから高校は無事?卒業し大学進学するのだが、上京して、塾講師のアルバイトから家庭教師まで行き当たりばったりで、さまざまな教育現場に顔を出し、自分なりにいろいろ考えながら、悪戦苦闘してきた。
教育に対して何か明確な哲学があったわけではないが、「本当にこのやり方で教育すべきなのか?」を自問自答しながら、生活するために教師のアルバイトを続けてきた。好奇心のまま動いていたので受験に向けた家庭教師では飽き足らず、その子の能力を伸ばす方法はないかと、生徒たちを外へ連れまわし、家庭教師している複数の生徒をグループにしてフィールドワークしたり、山奥で合宿したりもした。
いま思えば、それはすべて生徒(小学生から高校生まで)のためだけではなく、教えている自分自身が楽しめないと途端に指導する気が失せてしまうから、さまざまなアプローチを繰り返してきた気がしている。
教える側も教えられる側もエネルギーに満ち溢れ、互いに能力開発されるような学びのかたちを探してきた。
このとき失敗するかどうかをあまり考えたことがなかった。これをやったら子どもがおもしろい!って言いそう。しかも能力伸びそうだと思うことを好奇心のままに企画し実践してきた。
これだけ実践できたのは、生徒が賛同してくれただけではなく、彼らの父兄が賛同しくれたおかげである。もちろん勝手気ままにやってきたわけではない。既存の教育へ疑問を持つ父兄と相談しながら、その子どもたちの要望にも応えつつ、実験的な教育実践が行えた。
教育の面白くも難しいところは、指導する教師・授業を受ける生徒・それに賛同する保護者の三者の合意がなければ、成立しないことだ。
将来のことを考え、子供の成績が上がることを求める保護者と一方でそれに反して意欲のない子ども。
生徒がある教師に習いたいと思っていても、保護者の賛同(経済的支援)を得なければならない。
生徒と保護者の意見が一致しなければ、教育が向かう方向は定まらない。公教育であれば、半ば強制的に教育方針が決まっているが、それで3者が合意しているのかというと、それはそれで疑問である。
学校に通わないことを選ぶ不登校者がいるということは、公教育もまた、生徒から(あるいは保護者からも)合意を得られていない場合がある。
いずれにせよ、教師と生徒だけの合意形成では成立しないし、それはそれで偏向する危険性もある。2者なら明瞭であるが、3者になると途端に難しさが出てくる。
そこで考えたのが、3者でなければいいのではないか?ということだ。親子の対立や教師の一方通行的な指導を防ぐために、3者を複数化して、それぞれの問題を客観化できるようにすればいいのではないか?と考えた。
つまり、親・子・教師の3者だけでなく、複数の家族と複数の教師で合意形成をおこなうプラットフォーム。これを基盤としてそれぞればらばらの教育環境ではあるが、一つのプラットフォームでつながることができないだろうか?
と考え始め、中高生を中心とした子どもたちによる法人運営プロジェクトを始動するに至った。
1年前に一般社団法人東京ソーヤを設立。僕はそこの代表理事として、中高生と共にゆるく運営している。
これは、法人制度自体を教育的につくりかえる試みでもある。
僕は代表理事ではあるが、定款上「権力」を持っていない。議決権を持つ中高生にいつだって首を切られる。もちろん、これは子どもたちだけに主権を与え、放任しようという意味ではない。株主と代表取締役みたいなものだ。つまり、子どもに法的な権利を与え、親子、生徒先生の権力構造を逆転させることで、子どもと大人の関係を見直すきっかけをつくろうとしている。
子どもはお財布を握っていないので、立場が弱くなりやすい。だからこそ、彼らに法的な権利を与え、その権力のバランスをとろうとしている。
付け加えると、この法人は、学校ではない。それを目指してもいない。学習内容は余白のままだ。どんな教科学習をするのか、どんな学びをおこなうのかは、各人・各家族に委ねられる。
大切なのは、個人が学びを選択する余白を残しつつ、法的な枠組みを共有する「一時的なコミュニティ」を形成することである。
では、この法人づくりにどんな教育的効果があるのか。社会的にどれほど有用性があるのか。
その手法と効果についてまとめておきたい。
教育的なメリットをざっくりまとめるとこんな感じ。
①経理・会報で基礎学力を鍛えられる
②企画することで自分の教科カリキュラムを作成可能
③デジタル/アナログ、都市/自然を融合した教育を受けられる
では、以下から詳しく書いていく。
経営の実践を学ぶための「非営利型一般社団法人」という初期設定
東京ソーヤは、非営利型一般社団法人だ。
そうすると、「え、それって株式?とはちがう?」とか「非営利って何?儲からないって意味?」とか素直な反応が返ってくるので、1つ1つ説明することになる。それか、家族で話し合ってもらう。
この設定にしたのは、初動が速いというのが主な理由だった。設立費用も安いし、非営利で済むし、1ヶ月くらいで設立できたし。そうなんだけど、結果的に株式会社でもNPOでもないおかげで、法人とは何かという全体像を話すことになっていい。
〇非営利とは?=営利と非営利の違いを知る。
非営利組織といえば、NPO法人を想起する。だが、こちらは初動が遅いため選ばなかった。非営利は、役員で山分けできないというのが基本的な定義なので、商売ができないという意味ではない。
だが、この団体は、会計管理をスムーズにするため収益活動をゼロにしている。原則、会費と寄付金だけで成立させる。それは後で説明するが、別の意味を持つことになる。
〇社団法人ってナニ?と問うことが個人・法人の全体像をつかむきっかけに
社団法人って何よ?これに応えるために、株式会社や合同会社、NPO法人、財団法人と一体何が違うのかを教えることになる。法人と一言で言っても多種多様で、目的に応じてさまざまな形態を選ぶことができる。
大学に入って、すぐ就活するのがノーマルだから(そのシステムがいいかどうかは置いておいて)会社組織について当然知っておかなければならない。どんな学問を志そうとも、研究機関に所属しようとも、何かを生業にしなければならず、法人組織についての予備知識は必須である。
そうでなくても、法人の仕組みを知ることは、学校の仕組みを知ることでもあるのだから(多くの学校も法人だし)結局法人体を学ぶことは自分たちが所属する環境をマクロな視点で見ることになり、「あぁ自分はそんなシステムの中で学べているのか」と把握することができる。だから、これはリベラルアーツともいえる。
〇フットワークが軽い法人である
法人住民税7万かかるけど、収益活動してないから会計が楽だし、新しい企画が生まれたら各個人か別の会社が責任主体となり実施してもらう。
前の記事にも書いたが、非営利団体は「企画」する場として機能することが事業全体における役割だ。おそらく世の中のオンラインサロン(HIUとか)も実情は単なるサロンというのではなく、この機能を担っているのだと思う。
上の図のように、非営利団体は、主に「箱」を準備する役割を担う。学ぶ場所を提供するのが主な仕事というわけだ。
教材や指導は、会員がアレンジし放題にする。ただ、ポイントは、教材・指導について何の準備もしないのではなく、会員が自分から学びやすいようにコンサルティング・プランニングまでスタッフがおこなうということである。この辺の教育的なさじ加減にセンスが問われる。
「社員」というイメージ戦略
〇正会員が社員となる
正会員が、一般社団法人の社員である。
これは株式会社の社員とはちがう。雇用関係を結んでいない。
会費を一番いただく正会員が、社団法人の社員に当たる。
正会員の会費はプロジェクトに参加する教育費というと分かりやすいかもしれない。(それにしてはかなり低価格に設定している)
生徒ではなく、社員とあえて呼ぶのは、生徒たちが「あ、俺はこの法人の社員だから頑張んなきゃ」という気持ちに自然となるだろうと感じたからである。
この半分冗談みたいな手法は馬鹿にはできなくて、1年やってみると、イメージを背負って、頑張ろうとする「社員」が現れている。
社員だからという理由で正会員の中高生は、企画に前向きに参加しようとしてくるし、父兄も社員の働きを促す。
これまでなら、「おい、この荷物運んどいてー」と頼んでも返事はすれども、まったく手伝ってくれないということは多々あったが、社員さんお願いしますと言うと、すぐ手伝ってくれる。これはおもしろい演出だと思っている。
〇中高生が議決権を持たなければいけない
社員になると、社員総会で議決権を持つ。
先述のとおり、僕は定款上社員に雇用されているだけで議決権を持たない。法人のなかでは立場が弱い設定にしていて、毎年社員総会で僕の首を切るかどうか社員が判断できる。
自治権を与えるということだが、社員総会では大人も子供も意見を言うけれど、それぞれの社員ごとに判断の仕方がちがう。
ほかの会員の多数の意見を取り入れて、決めるという子もいれば、家族の意見と反対だったとしても自分の意見を押し通す子がいたりする。
法人を運営するとは、言うまでもなく協働制作することである。
議決権を持つとはいえ子どもだけでも成り立たない。その周囲で父兄教師の進言によって彼らの意見は左右される。だから家族単位で法人に参加することとなり、そこに意義を見出している。
本社事務所をどこに設定するか?
〇里山の古民家が本社
どこを本拠地にするかというのはこのシステムの場合非常に重要になる。なぜって、事務所が教育施設であるからだ。
東京を中心とした都市生活する子どもたちにとって、どんな教育施設なら最も効果的か?
その結論が里山の古民家だった。
それは、マンション暮らしの正反対の場である。
清潔・快適・便利を追求するマンション暮らしに対して、古民家は、夏は涼しいけれど虫は入ってくるし、冬は寒いから、じっとしていられない。
だが、その環境には、本来子どもたちの育成に欠かせないのに、都市生活に明らかに欠けている教育的な要素が眠っている。
〇都市生活と正反対の場所
都心部のマンションは、天候に左右されず、気温も一定に保たれ、どんな環境でも住人が快適に過ごせるように設定されている。もちろん虫もいないし、雑草も駆除されていて、管理人がきめ細かく掃除してくれることだってある。それに駅にも近くて、買い物にも行きやすいので、便利だ。
一方で、里山の古民家はといえば、梅雨時期は湿気がすごいし、冬はとても寒い。天候や季節に左右され、開けっ放しの縁側からはさまざまな虫が往来する。だが、家にいながら自然に触れられ、古民家の柱木の手触りに安心感を得る。
また、正面扉から外にでなくても、縁側や裏の窓、勝手口など屋外の自然環境と自由に行き来できる。おとなしくしていられない、落ち着かない子でも、急に古民家から外に出かけたくなったら、すぐに山を散歩することもできる。ほかの子が別のワークをしていても、近くを通り過ぎなくても済むので邪魔にはならない。この自由な雰囲気は、マンション生活に欠けているはずだ。
古民家は、原初的な体験に飢えている都市生活者に、こうした生の体験を与えつつ、学習するに適したベースキャンプ地として機能するのだ。
〇オンライン教育と正反対の場所
そして、今まさに加速するICT教育においても里山の古民家をベースにすることが欠かせないと感じている。
動画教材をはじめとしたICT教育は、非常に便利かつ合理的な教育である。子どもたちも今後より知識を短時間で吸収できる機会が得られるにちがいない。(と信じたい)
だが、一方で、リアルの体験の少なさに危機感を感じる人も少なくないはずだ。デジタルデバイスを見つめ続けるだけで、本当に子どもは賢くなるのか?結局は余計なことにタブレットを使って、勉強に利用する時間が減るだけなんじゃないか?
では、リアルの学校授業に戻るべきか?
いや、そうではないと僕は思っている。もう一度タブレットを回収して、元の授業スタイルに戻るのは不毛だ。
むしろ、子どもたちを教育する上で必要な生の体験をもっと与えられるシステムにするほうが、より合理的だ。つまり、今後ICT教育では不足する自然体験を中心とした具体的体験と対人関係を学べる新たなプラットフォームの作成が急務だ。
その答えの一つが、里山の古民家を中心とした東京ソーヤの教育環境設定であると僕は考えている。
どんなことやる?運営=教育プログラムの実態
〇経理と会報=中高生の「読み書きそろばん」
東浩紀氏の『ゲンロン戦記』にあるように、法人運営の主な業務は、事務経理だと僕も思う。
行政に提出する書類作成、レシートの保管と簿記から決算までを、さすがに社員にこれら全てを頼めないので、基本的に僕がやっているが、毎月社員会でどんな書類を作成し、会計が現状どうなっているかを報告している。
それに加えて、東京ソーヤの社員は、会報を毎月社員会で書いている。
最近どんな活動をしているのか。
今度どんな企画をするのか。
書いた小説の発表。
など書くことは、社員の主な仕事の一つとしている。
活動を記録することを非常に重要視している。それは彼らの文章作成能力を上げるという理由と共に、活動をアーカイブ化することが東京ソーヤのためにもなるからだ。
特に参考にしているのは、以下の本にあるようなドイツの地方都市のアーカイブ化のシステムである。
教育は、やりっぱなしでアーカイブを残すことをないがしろにしがちである。だが、活動→制作につなげていくこと自体が教育的であるということを教育者は自覚しなければいけないと思う。
ということで、経理と会報は、東京ソーヤの社員のベースとなる活動である。これらが難なくできなければ、東京ソーヤの社員ではない。
社会人になれば、会社の財務状況を把握し、戦略会議でプレゼン資料を発表し、営業と制作に大きく分かれてタスクをこなす。大きな会社なら分業化しているかもしれないが、自ら起業するとなれば、これらの業務全体をこなせるビジネス基礎学力がなければならない。
とどのつまり、東京ソーヤの社員たちは、そうした社会に出た時に即座に役に立つスキルを学んでいるともいえる。
〇毎月恒例行事焚火の会=「家族懇親会」
もともとは、都市生活で疲れた子どもを癒すには焚火の体験が一番手っ取り早く活性化すると言った松永暢史(https://note.com/vnetjoker)の活動を継承しておこなってきたものだが、法人化した後は、社員を中心とした家族懇親会の様相を呈している。
焚火の会では、焚火で気ままにBBQする人もいれば、家の中で談笑する人もいる。
社員たちは、その間を縫うように、コーヒーを父兄にサーヴしたり、家事の手伝いをしたりすることもあれば、外遊びをする子どもたちをまとめあげたり、カードゲームをみんなでやったりしている。
また、社員の家族を中心に、古民家の壊れたところを直してくれたり、お菓子作りやパン作りを企画したりする父兄もいる。
そうやって半日発散したら暗くなるころ帰路に就く。
それは、まるで会社で開催される社員とその家族が集まる家族懇親会のようであるが、全員が子どもの教育のためにこの環境を求めてやってくる。
一人っ子の多い子どもたちが縦割りの疑似的な兄弟関係をつくり、自然体験を積み、ほかのお父さんお母さんに世話してもらうことで、自分の家族を客観化できたり、子育ての悩みを日常生活とは関係ない人たちに率直に語り合えるし、非常に教育的に効果のある会になっている。
このように家族が複数化し、法人という枠のなかで共存する。それぞれが別の教育コミュニティを持ち、利害関係を有していない。それがために、自由気ままに談笑しやすいかもしれない。
対話を繰り返し、他の子とのかかわり方を観察することで、父兄・教師は子どもへの教育を多視点でみることが可能になる。
〇社員会という名のキャンプ
社員たちのみ月1回社員会を開いている。
土曜日夜に集合し、火に当たり、翌朝各自ワークした後、10時よりミーティングを行う。
ミーティングでは、会報の企画、事務経理、助成金の申請の話、町民との打ち合わせ、2棟目古民家探しなどについて話し合う。
その間、社員がやることは会報・資料作成と財務状況の把握、町民への営業活動。
社員会の時間を社員と過ごすことで、彼らのモチベーションを保つことができる。というのがあくまで建前で、社員のほとんどは、非日常空間で自分の好きなことをしている。読書したり、創作したり、農業したり。
ミーティングと会報の調整はやるけれど、それ以外の時間は好きに過ごしている。仕事といえる仕事はほとんどしていない。
だけど、クリエイティブな社員というのはそういうものだと思う。
〇社員によるワークショップ
社員企画のワークショップは、寄付を募ることも目的だが、一番の狙いは企画者の能力開発につながることである。
たとえば、英語嫌いの子が、英語学習のワークショップを企画する。
テキストや単元を自分でカリキュラムを組み、学びたい子を年齢の分け隔てなく募集して数名で英語を学ぶ。
zoomでやりとりしつつ、月に数回古民家で会って学習会を開く。放課後学習会をする子もいるだろうが、これなら不登校の子も学校で馬が合う子があまりいない子もオンラインと古民家で十分学習機会を得ることができる。
他にも、創作活動の発表の場としてワークショップを開く子もいる。懸賞金を得られる作品応募サイトを見ながら、毎月出品するために互いにやりとりする。仕組みとしては新しいことではない。同人誌作成するみたいなものなのだ。ただ、これを教育目的として見直すことで新たな可能性を探っている。
企画者自身が、自分の能力開発になることを企画して、それに賛同した人と共に切磋琢磨する。これが定番化するとどうなるか。
苦手教科の勉強をオンラインと自然環境で学び、よくわからなくなった法人のスタッフに質問する。より高度な講義を受けたければ、専門家を呼んで話を聞く。
自分たちのカリキュラムを作成し、そこで完結する学びを生み出すことも夢ではないだろう。
東京ソーヤとは一体何か
〇失敗を許容する法人
法人の制度自体を教育的に読み替えていく上で何よりも大事だったのは、社会実践のなかで、いかに失敗を許容する仕組みにできるかということだった。
教育のいいところは、成功よりも失敗の中にも可能性があるとして、子どもに接することができるところだ。失敗したとしても、その子の育成につながるならいいし、もう一度挑戦すればいいのだから。
だが、世の中にはそのような理想を掲げる教育者ばかりではない。また、受験や試験などそうとばかりは言ってられないというムードになる親も多い。
現状では親が教育熱心になればなるほど、「正解」のある教育から脱せられなくなる。受験から逆算して、小学校低学年ないしは幼児期から知識・知恵の定着を求める。あるいは、自分自身の感性よりも教育学のデータを元に、本当にそれがいいと思う前に、周りがいいと言っているからという理由で「正しい」教育法を取り入れる。
多くの教育もまた、すでに価値づけがなされたものが適応される。いくつもの検査をくぐりぬけ、品質が確保された商品が棚に出る。研究段階の習作は提供されない。だが、一般に広まった商品はすでに時間の経過によって、時代にそぐわない腐った商品であることもあるのだ。
だから、僕は研究段階の習作こそ教育的に価値を秘めていると考えている。
習作は完成されていない。だからこそ、対話の可能性が広がる。
社員たちの会報やワークショップは、至らないことがあるだろう。だが、その連続と周囲のアドバイスによって研鑽される。
より良くしていくために繰り返される失敗は許容されなければならない。その空気があるからこそ、より前向きに挑戦していける。
東京ソーヤは、キッザニアのように、疑似体験(ままごと)によって、実際に起こったときに適切に対応できるようにトレーニングする、いわゆるロールプレイではない。
実際にお金が動くリアリティの一部だ。だが、ロールプレイ的かもしれない。
実際にお金を動かしながら、子どもが緊張感を持ちながら、実際の法人組織経営について学ぶ。ただ、これは「本番」ではない。いずれ社会で働くときに、実践するための稽古である。
ここに、舞台と職場の類似性を見ている。働くとき、ある種その場にふさわしい自分を演じることになる。これは舞台の上で演技することと似通っていると感じている。
だからいずれやってくる本番に向けて、東京ソーヤという稽古場で、中高生は日々稽古をおこなう。このとき、さまざまな失敗がある。よりよいものに向けて失敗を許容する空気が稽古場にはある。
〇デジタル/アナログ、都市/自然を融合した教育
今後、事務所である古民家だけではなく、奥多摩の広いスペースを会場とする可能性がある。(会員が増えてきて、古民家一棟だけではもはや狭すぎる)
スペース次第で、地域を巻き込み多種多様な人を招待することができる。
たとえば、町民ならびに日本語学校の生徒たち(今は閉校しているけど、いずれ復活することを願う)を呼び、日本語と外国語の飛び交う懇親会(焚火の会)を開催する。
また、その際、地域の里山の間伐材を焚火に利用することで、地域の資源を教育的に活用することで、地域により貢献する。
都市生活する子どもたちは、年齢関係なく、縦割りで話し合う機会を自然と得ることができる。
また、関係する教師たちが、新たに地域の空き家で学習スペースを作り出す。(実際、それを見越して法人運営に参加する教師たちが多い)
社員のワークショップは通常オンラインでやり、月に数回古民家で開催する。ネット環境と自然環境両方の恩恵を受けつつ、学びの機会を増やしていく。
このように、自然環境に拠点を置くことで、デジタルとアナログ、都市と自然を融合し、地域との連携も含めた教育として今後提案していくつもりだ。
〇既存の教育システムを壊すのではなく、別の視点を与える場
社員のワークショップのように、子どもたちが自分でやる気になったら、自分で学びたいことを学べる。それを、フォローするのが周囲の大人の役目だ。
いずれ継続していくうちに教師たちの参加が増えれば、カリキュラムを個々人で作成して、子ども中心でありながら、教科のカリキュラムもその子にあったかたちを提案できるだろう。
「ネットを利用して学びたいことを学びたい先生に習えばいいんじゃないか。」
「自然環境で勉強したらあんまり疲れないんじゃないか。」
「子どもだけで率先して学習会を開けばほぼ無料で学べるじゃないか。」
「カリキュラムを大人に手伝ってもらいながら、自分で勝手に作ればいいじゃないか。」
そういう可能性もあるということを子どもたちとその家族に示し、教育のインスピレーションを与える。
東京ソーヤは「スクール」ではない。あくまで教育プロジェクトである。
非日常体験であり、それぞれの現実を再認識させることが目的である。
教育は、どうしても教える側も教わる側も、所属する既定の教育で凝り固まりがちである。実際にはそうではない可能性があり、幸か不幸かたまたま自分のいまの環境があると自覚する機会は少ない。
だから、東京ソーヤは、それぞれの教育環境を俯瞰し、多様な教育があることを再認識する場である。自分の属する教育にはメリットもデメリットもある。公立学校生もいれば、私立学校生もいる。不登校者もいれば、部活動を目いっぱいやっている子もいる。
多種多様な状況で、それぞれに自分の教育に不満を持ちながらも生活しているが、他の環境にいてもなお不満があると知る時間をつくる。
そして、今の自分の環境をどうしたらもっと良くすることができるか。
関わる人たちの現実をアップデートする機会を作り出そうとする。
〇法人はいずれ死を迎える
この法人は、中高生の「古民家が必要だ!」と言う切実な思いがなければやらなかっただろう。彼らは本社である古民家での体験を愛している。
裏を返せば、彼らがもう必要ないと思えばそれまでとなるだろう。今の世代から次の世代に引き継げなくて終わるということもあり得るし、また別の学びのかたちを見出せば、東京ソーヤを終えるかもしれない。
ほかの法人と異なるのは、東京ソーヤは何としても延命しようとする法人体ではないということだ。
会費と寄付だけで回すので、廃業もあり得る。おかしな言い方だが、廃業を何としても忌避するわけではない。中高生がこの場所を必要としないのなら、この「遊び」を終了=廃業すればいいと思っている。廃業にも学びがある。法人を継続しようと努力しつつも、子どもたちが率先して運営しようとしなければ、廃業も致し方がない。法人運営は廃業も教育的であると考えている。
いずれにせよ、このプロジェクトは法人が「死ぬ」まで続く。だから、これは教育機関をつくったというよりもあくまでプロジェクトの一つだとみえている。
それに東京ソーヤが死んでも、それまで連続した中で、起業する精神の種は撒かれているはずだ。むしろこのプロジェクトに参加した人々が、起業しようと志せるようにしたいと思っている。
すなわち、東京ソーヤを何としても延命するのではなく、次世代への「種」を撒くことを優先する。
まとめ
以上が、東京ソーヤの全体像である。
法人の仕組み自体を教育的につくりかえ、運営すること自体が教育となるようなかたちを模索している。
法人を一緒につくらなければならないので、放任主義的でもないし、子ども主体とはいえ、家族の総体で運営することになる。
それぞれやりたいことは違っても、意欲が生まれたらすぐさま行動できる環境がそろっている。
そういう理念のもと活動し、中高生のモチベーションがなくなった2022年8月に一般社団法人東京ソーヤは解体した。
「死んでしまうこと」は少し寂しいが、それでもそれぞれの子どもたちの心に学びの種が植え付けられたと確信している。