大羊春秋~羊務執筆者党史~ 第26回
この「大羊春秋」(だいようしゅんじゅう)とは、私 前多昭彦が主宰していた同人誌サークル「羊務執筆者党」(ようむしっぴつしゃとう・略称SSP)の活動を振り返る「回顧録」です。
GELBE SONNE 7・その2
『GELBE SONNE 6 姫ちゃんのおませなひみつ』大成功の勢いに乗じて攻勢をかける「SSP」、ところがここで大きくつまずいてしまいます。
「コミックマーケット45」に落選したのです。
広いスペースを欲してI上主宰のサークル「北洋水師」と合体申込みをするも、「大手サークルでもない限り合体申込みは片方が必ず落選する」、という噂の通り一方のサークルが落選してしまいました。
しかも当選したのは無名の「北洋水師」です。
現在ならばネットで落選とそれに伴う委託先を事前宣伝できますが、当時はまだそのようなことはできません。
これにより“姫ちゃん本の羊務執筆者党”という知名度は完全にリセットされてしまい、『GELBE SONNE 7』(ゲルベゾンネ ジーベン)の頒布は非常に大きなリスクを背負うこととなったのです。
さらにカタログに載った「北洋水師」のサークルカットがそれに追い討ちをかけます。サークルカットはサークルの頒布物の内容を表す、サークルの顔とも言うべきものです。が、悪乗りしたI上は男性向同人誌サークルに相応しくない、「勇者特急マイトガイン」の男性キャラ“ショーグン・ミフネ”を描いていたのです。これはほとんど集客を見込めないカットでした。
この当落結果には非常に失望しました。「姫ちゃん本」の好成績により「コミケ」においてある程度実績ができた「SSP」は、落ちないだろうと考えていたからです。「北洋水師」のサークルカットをそのまま採用したのも、この考えがあったからでした。
また配置場所も不利でした。男性向ジャンルのメイン会場といえる新館1階ではなく、隣のB館に配置されたのです。
この点だけでも『GELBE SONNE 7』の印刷部数を減らす要因でしたが、当時の私はよほど「姫ちゃん本」の成功に自惚れていたのか、そのような判断をしませんでした。
対策を講じなければなりません。
大島洸一主宰のサークル「もも組」が新館1階に配置されていたので、ここを重点サークルとして600部を置き、「北洋水師」にも600部を置きました。
I上の提案で、部数調整の必要が生じた際などを考慮し責任者として「北洋水師」には私を、「もも組」にはI上を配置することにしました。また、携帯電話が普及する前でしたから、I上がパソコン通信「NIFTY-Serve」の某フォーラムで知り合った男性であるY本に連絡役を頼みました。
さて、「コミケ」当日がやってきました。
【コミックマーケット45】
◎開催日:平成5(1993)年12月29日(水)・30日(木)
◎会場:東京都中央区晴海「東京国際見本市会場」
◎「北洋水師」配置場所:30日「ラ-77a」(B館)
◎売り子:A見・T中・真慧多昭彦(筆者)
あとA見の知人のK藤が手伝ってくれました。
頒布成績は225部です。※印刷所からの直接搬入。
委託頒布の詳細は次の通り。 ※《》内は委託部数
◎もも組(ニ-26b)《600》166部
◎握手0.5秒PRESENTS(D-31b)《100》〈完売〉
◎夢屋花乃屋(ネ-29b)《100》38部
委託分を合わせた総頒布部数529部。
成績は奮わず、印刷部数の3分の1ほどにとどまりました。
これは4桁前後の頒布数、あわよくば即日頒布終了を目論んでいた当時の私をひどく落胆させるものでした。
この「コミックマーケット45」では信じられないことが起きました。
午後、「もも組」の様子を見に行ってみると、机上の頒布物はそのままでスペースに誰も居ません。私がギョッとしながらも視線を移すと、スペースを大きく離れた後方、島(机で囲まれた区域)のほぼ中央でI上と大島が立ち話をしているのです。
私は啞然としました。
これは売り子のサボタージュと言えるでしょう。
しかもI上は「もも組」の責任者を自ら申し出たのですから悪質です。
その場で注意するべきでしたが、頒布成績の大不調で打ちひしがれた私に、その気力はありませんでした。あと年上のふたり(大島5歳・I上3歳)を注意することへの気後れもありました。
当然、誰も居ないスペースには誰も立ち寄りません。
閉会時間になりました。
会場からの搬出は宅配便が利用されましたが、最低限の目標である印刷代の回収もできなかったところへ宅配便の多用は、党の財政を圧迫する事態となりました。
大量の残部は総裁府、つまり私の自室のみでは保管できないことから、この他にA見宅、さらに私の実家までも利用されました。
当日の撤収時は梱包作業に追われ部数の確認ができなかったため、翌平成6(1994)年1月の日曜(日にちは不明)の午前中にA見宅において私、M本、A見の3名により残部数の確認作業が行われています。
「コミックマーケット45」の翌日である12月31日(金)の夜、東京・新宿駅東口は靖国通り沿いにある居酒屋「志ろう」で「SSP」の慰安会が行われました(費用は全額党が負担)。利用した店舗は私の要請を受けて大島が選定したもの。
参加者は『GELBE SONNE 7』の製作にかかわったメンバーほぼ全員で、二次会にはカラオケが行われ始発電車の頃に散会するという盛況に終わりました。
平成6(1994)年1月下旬の日曜、新宿駅東口近くにある喫茶店において、A見主導のもと『GELBE SONNE 7』についての反省会が行わました。出席者はA見の他に大島洸一と私、あと1、2名の出席者があったはずですが失念しました。
この席上、A見が作成した1枚のプリントが配られ、それには
『GELBE SONNE 7』の印刷部数は適正だったか?
(自ら申し出た役割を勝手に放棄した)I上をどうするか?
の2点のみが記されていました。
結果、『GELBE SONNE 7』の印刷数を1500部にしたのは失敗だったということと、I上の言わば“追放”が決まりましたが、低下した志気を回復するには至りませんでした。
以後、私はI上との交流を絶ちました。
この反省会が開かれる前のある日(反省会後かもしれません)、私がI上へ電話をし、何故先の「コミケ」で責任者としての役目を果たさなかったのか尋ねました。
すると彼は悪びれる色も無く、傲然と次のように言い放ちました。
「思っていたより本が売れなかったのでやる気を無くした」
私は啞然としました。
自ら申し出た約束をこんな理由で一方的に破ったのです。とても29歳の大人がやることとは思えません。
当時、A見は「良心に基づくところの義務」という言葉をよく口にしていましたが、I上には“良心”が無かったようです。
《第26回「GELBE SONNE 7・その2」おわり》
※文中敬称略
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