合法メンヘラ女の軌跡6
〈リハビリへの目覚め〉
このようにICUの頃と変わらず窮屈でいて鬱々とした日々を送っていると、「こんにちは!改めてリハビリを担当します、〇〇です。」と当時の私の唯一の光であった理学療法士が訪れてくれた。しかし、いつものようにベッド上でのストレッチをするのではない。彼女は私を車椅子に移乗させ、リハビリ室へ連れていった。これからは本格的に回復を目指すのだという。ストレッチだけでなく運動が加わったので癒しの時間がこれまでより伸びたことに歓喜した。相変わらず、リハビリを行える時間は数十分程度であり決して長くはないが、リハビリの内容に運動が加わったことで(このまま回復しないのでは。)との不安は和らいだ。そして、リハビリ室には看護師がいないので辛い日々の出来事や看護師への愚痴を思う存分吐露できるようになった。
つまり、私はここでようやくストレスの解消の糸口と抱える不安を解消する手段を得られたのである。そして、このリハビリ訓練の間は動かない身体を動かすことに集中が向くので、壊れた頭のことや先が見えない将来、家族への申し訳なさ、元看護学生なのに、といった日々の不安やいらないプライドを考えずに済んだ。それゆえ、リハビリをしている間は気持ちが非常に安定するのだ。こうしていると、気持ちが上を向きはじめる。リハビリを続ければいずれは元のように歩けるのではないか、とわ僅かながら思えたのである。そして端的に申し上げると私はリハビリにハマった。訓練でどんなに小さくとも進展が見られるとその度にその様子を動画に撮り、家族や友人にLINEで共有した。送る文面は決まって『本日のあんよ』である。生まれたばかりで泣くことしかできない赤ちゃんがやがて這いつくばり、二足歩行ができるようになるみたく、私も回復できますように。と回復への願いと赤ちゃんよりも何もできない己への皮肉を込めたタイトルである。
しかし当然、訓練をはじめてすぐに回復を得られたわけではない。リハビリ開始時点の私は今後歩くことがまったく想像ができない状態だった。主治医からも「ひまりさんはもう二度と歩くことはできませんよ。今後は一生車椅子の生活です。残念ながら、これまでと同じように生活することはできません。」と告げられていた。しかし、理学療法士と家族や友人の支えがあって、リハビリは起き上がり、座る姿勢の保持、そして立ち上がりと時間をかけながらも順々に進んだ。
しかし立ち上がりまでは比較的スムーズに進行したものの、歩行に至るまでにはかなり難航した。歩行とは片脚立ちを連続させることで行える動作だからだ。このためには左右共に体を支え、重力に耐えるだけの体幹と筋力が必要となる。脳梗塞を発症してから1週間ICUでまともに食事を食べずベッドに転がり続けた私の身体は体幹も筋力もすべて枯渇してしまっていたのだ。とてもじゃないが己の身体が、そして重力が、重くて重くて仕方がない。例えるならば、みぞおちを負傷した状態で頭と肩に10kgの米袋を2袋載せて片脚で歩くような感覚である。(やったことはないし今後試すこともできないがこのような感覚だと思う。)これでは一向にリハビリは進まない。それゆえ、太ももまでの長さがある長下肢装具(足を思うように動かせない患者が装着する金属製の歩行補具)を理学療法士に装着してもらい、腰と臀部を理学療法士の全身で支えてもらって訓練するように対応された。通常であれば感じもしない重力、そして自分の身体が、本当に重くて重くて仕方ないのだ。足を踏み出したくとも一歩も踏み出すことはできなかった。しかし、たとえ下肢装具と理学療法士の力を借りながらで『歩く』という動作をとれることは嬉しく、励みになった こうしてリハビリが入院中の楽しみとなる。
そして、入院から約2ヶ月が立つ頃には立ち上がりは十分可能となり、長下肢装具と4点杖(4つ足の杖)があれば歩行のようなものができるように仕上がっていった。そして排泄についても看護師を呼ぶ必要はあるものの、排泄中に看護師を横に付ける必要はなくなった。看護師を呼んで排泄し、終わった後に看護師を呼べばいい程度にまでに成長したのだ。(働くことは勿論難しい。しかし車椅子であれば自宅内での生活はできるのではないか。このクソまずい食事とモラハラとパワハラ以外の何者でない看護師の目が常にある環境から脱出できるのでないか)そう期待を持つようになった。