いつだって現実は理想ではないから、可能性とともに未来が与えられている。
これからを生きるための心構えと優先順位。
存在を肯定し続けること。
生きるというのは、たぶん、そういうこと。
自分を肯定することは、命の肯定。
命は私だけのものではないので、生きとし生けるものへの肯定になり、この世界そのものへと繋がる。私は、存在する全てを肯定する。
なんて、思うだけでその通りに生きられるなら、挫折なんかしてません。
今の私には、嫌いな自分も、赦せない自分も、どうしようもない自分もまだまだいる。この世界にも、起きてほしくないこと、無くなってほしいこと、こうなって欲しいことが尽きない。
けれど、今ある現実は変えられません。
いつだって現実は理想ではないし、だからこそ、可能性とともに未来が与えられている。それが、矛盾だらけの今を生きる命のあり方。
なら、生きている間に存在する全てを容認できなくてもいいのかもしれない。肯定できなくても、否定しなければ、きっと。
現実にあるものを否定しない。
現実を否定したくなるのは、本音を偽るから。
本音と価値観が食い違うから。
現実と理想の構造と同じ。
未来には合致するかもしれないけれど、今現在、マッチすることのないもの。現実は変えられないので、理想をどうするか?
その前に、本音と価値観、どちらが現実?
はい。本音です。
なぜなら、変えられないものだから。
理想を優先すれば、変えられない現実を拒絶するしかなくなります。
価値観を優先すれば、変えられない本音を捻じ曲げてしまいます。
偽ってはいけないのは、変えられないものだから。
価値観は、理想です。
価値観を自分のものと信じていると、騙されます。価値観を本音と思い込むようになります。
自分の中にある価値観は、私のものではなく、自我が寄せ集めた誰かのもの。いい悪いは、社会に受け入れられるための処世術。そのくらいに考えておけば、成功や幸福に執着せずに済みそうです。
そうしましょう。そうしましょう。
本音を偽らない。
本音を偽らないことは、貫くこととは違います。
現実と折り合いがつかなくなるのは、価値観を守ろうとするから。価値観は理想なので、変えられるもの。なのですが、得策なら本音ではなく価値観を優先したっていいんです。
処世術のないまま自由を求めたら、破滅しかねません。無理を押して本音を通そうとすると、手痛い目に合います。
這い上がる大変さは、身をもって経験したので、もう魔境に堕ちたくありません。成り上がる根性が必要なことも、やりたくありません。
ただ、選ばなくても、本音の言い分は訊きましょう。
言いくるめたり、反論してやりこめたり、無視したりしないこと。
あまりにも蔑ろにしていると、本音が聞こえなくなってしまうので、人生に迷うことになります。
今とは、理想と現実の狭間。
ギャップを埋められないまま生きなければならないので、現実はなにかと不安定なもの。
不安定な今から、未来を思い描こうとすると、今ある不安を解消している安定した未来を夢見たくなります。が、それは、青い鳥を追いかけるようなもの。実はありません。
夢に向かって努力する程に、磨耗して、自己否定に向かって行きます。未来を疑うようになったら、なにもできなくなります。
未来を疑わない。
未来を疑っていると、過去を責めたくなってきます。
あの時、別の道を歩んでいれば、今とは違う現実を生きている。望む未来に近づけたのに…
過去にはなんの責任もないのに、責め始めます。
過去を責めれば、、過去の選択が間違っていたことになります。
変えられない過去を間違いにすれば、今ある現実も間違っていることになります。気に食わない現実にも言い訳がたってしまいます。
反論の余地がなくなり、単なる自己嫌悪が、自己否定に向かいます。
過去は、変えられません。
なら、今がどうあれ、過去の選択は最良だったと決めてしまいましょう。決めつけることで、間違った今は消え去り、気に食わない現実だけが残ります。間違いではないなら、なんとかなります。
過去を責めない。
未来を疑うことも、過去を責めることも、人生に対して、なに一つポジティブな影響を与えません。なので、私の人生にはいりません。
二つの不幸せを呼ぶ発想は、気に食わない現実から生み出されています。否定したくてたまらない現実を生きているから、不幸せになってしまうのです。
なので、現実は否定しないこと。
それに尽きます。
これまで否定してきたものをやめることができたら、残りは肯定できる現実しかなくなります。
自己肯定感が高まるので、充実しているとは言えない日常でも、何も為していない自分でも、それでいいと思えるようになるのでしょう。
そうなることを期待しています。今の人生も悪くないと思えたら、視点が変わるから。
価値観には、二つの意味があります。
一つしか見えないように出来ているけれど、必ずもう一つあります。
幸せになろうと願う限り、不幸せな発想を選び続けることになるのは、今を幸せでないと言い続けているようなもの。
なにかを望むことは、今を否定することになります。このままでもいいと思えない限り、努力は逆方向の結果を生みます。同じ現実だとしても、対極を成す価値観のどちらを選ぶかで、人生は変わってゆきます。
これまでとは違うもう一方に目を向ける。そのために、視点の偏りを減らす。思い込みで、相手を決めつけない。現実を否定しない。
幸せになろうとするのではなく、無理に今ある幸せを数えるのでもなく、何の予定もないけれど、気分良く過ごせそうな気がする。
そんな明るい予感を積み重ねた先の未来に、振り返れば幸せが積み上がっている。
そんな人生が歩めたらいいと思っています。
私たちは、命です。
ただ今日を生きて、明日に命を繋ぎさえすれば、それで十分。
なので、生きとし生けるものは、ちゃんと命の役割を果たしているのだと思うようになりました。どれほど無価値だと、社会にニーズがないと思っていても、今日を生き延びたのなら、満点。
そのくらいの価値が、今日の命にはある。
亡くなってしまった方は、命の勤めを果たし終え、安らいでいる。そう信じてみることにします。
残された者にとって、身近な人の死は、そんなキレイゴトで納得できるものではないけれど、現実を受け入れたくないほど愛していたのかもしれません。そうだとしたら、少し救われます。
母が安らかでありますように。
fumori