世間知らずは、自分知らずでした。
結果を目的にしない。
なら、なにを人生の目標にしたらいいのだろう?
結果より過程とは言うけれど、
その過程で得られる感情の豊かさかな。
決めることは、知ること。悩むこと。
やることは、怖いこと。高揚すること。
結果に応じた感情を味わうこと。
なら、面倒くさいは、できること。
飽きたサインなのかもしれない。
命には今しかないけれど、
心が揺れ動き、
感情が生み出され、
絶え間ない変化が流れ始め、
今ではない時ざ溢れ出す。
時間を生み出しているのは、感情。
人生とは、時を生み出す感情の記録。
私の命が尽きるまで、
感情は変化し続ける。
人類が滅亡するまで、
時代は流れ続ける。
個人の心が定まらないから、
地球は発展しているのかもしれない。
私が苦しかったのは、
定まらない心を定めようとしていたから。
感情を抑えて、クールでいることが、
理想の私だったから。
そんな自分なら、
現実が生きやすくなると思ったから。
常識的であることと、
常識的な自分になること。
それを同じことだと思っていた。
定まらない心も、
集団においては人間性を否定され続ける
ということも、あり得ないことだった。
疑うことなく、
常識的な自分になろうとして、
否定されることを当たり前ではなく、
自分の人格のせいにした。
私の人生が苦しみに満ちているのは、
当たり前でないことを前提にしたから。
結果を目的にしたのも、
生きる理由がなかったから。
求めていたのは、最初からそれ。
結果ではなく、生きる理由。
生きる理由なんてない。
生まれたから、死ぬまで生きるだけ。
そう信じていたから、
目先の現実的な結果を目的にしただけ。
生きる理由を知るために、
自分を知ろうともしなかった。
自分のことなんて、
自分が一番わかっている。
疑ったことすらなかった。
自分を知るために、誰かと、何かと、
本気で向き合ったこともないまま、
ここまで生きてきてしまった。
自分を知らないから、
現実を生きられないなんて
考えたこともなかった。
現実は対処するものであって、
克服するか、耐えるか、
逃げるか、諦めるか…
そんなほぼネガティブなものだった。
今なら、自分の心が反映された世界
そのものだと思えるけれど、ずっと
理不尽だった。
自分を知ることは、世界を知ること。
現実が辛すぎて耐えられないなら、
変える努力をするのではなく、
自分を知る努力をすればよかった。
自分を知れば、
世間との折り合いもつけられる。
自分を知らなかったから、
間違った前提と、自分像を疑うことが
できずに、わかった気になって、
無自覚に迷惑をかけてきたのかもしれない。
自分が辛くて、手一杯だったから、
相手の見守ってくれていた優しさに
気づかなかったんだな。
私は、世間知らずだったのか。
常識を知らない人のこと
だと思っていたので、まさか自分が
世間知らずとは思ってもみなかった。
むしろ、常識については、嫌と言うほど
うるさく言わてきた。
田舎の村社会のせいもあって、
とにかく噂にならないように
生きることを求められてきた。
幼い頃から普通を強要され、
何かやれば「近所に笑われる」と諭され、
反発する私は普通ではない人間にされた。
今にして思えば、
世間に出ても楽に生きられるように
という親心だった気がしなくもない。
知識だけは豊富にあるから、
常識人を演じるだけの空虚なキャラに
成り果てるとは思わなかったんだろうな。
そんなに心が弱い人間とは
思ってなかったのかも。
どちらにせよ、
親心を踏み躙ってしまった。
きっと、自分がされて嫌なことは、
子供にさせたくなかったんだろうな。
愛に気づくのって、難しい。
愛されているって確信があれば、
また違っていたのかな。
確信があったから、
反発もできたんだろうけれど…
過去の選択の結果が、今の現実。
過去に解釈したことの正解が、
今日届いたということ。
現実が答えなら、
過去は問題なのかもしれない。
もしかして、辛かった過去は、
解釈を間違えていただけなのかな?
自分も世間も知らなすぎて、
偏った主観で決めつけていただけ?
なら、この先の未来に届く解答は、
まだあるのかもしれない。
そう思ったら、未来が少し楽しみかも。
死ぬまでに、
全ての伏線は回収されることを祈ろう。
fumori
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