いい人をやめた世界が、愛されたかった私にとって優しい世界でありますように。
「自己肯定感を上げる」
30日間チャレンジをしてみたら、
35日目にして、自己肯定感100%に至った。
その話をしようと思う。
私がネガティブな理由は、
数え上げればキリがない。
育った環境のせいかもしれないし、
出会ってきた人やイベントのせいかもしれない。
ただ、そうやって問題を論っていても、
この先、何も変わらないだろうな…と思った。
欲しいのは、
納得できる理由ではなく、
実際の自己肯定感であり、
自分の取り扱い方だった。
死にたくもないのに、
その声に怯える朝にうんざりしていた。
このまま生きていても、何もない。
このままでは、本当にいつか死を選ぶかも。
そんな虚無感や恐怖感から、
チャレンジを始めた気がする。
途中から、
noteへの掲載が追いつかなくなるほど、
日毎に価値観が変わってゆき、
最終的に、
何者でもない今の自分も
理不尽なままも現実も
そのまんまで100%なんだ
との境地に至ることができた。
今ある現実を否定することはなくなったし、
他者を受け入れられそうな気さえしていた。
幸せだったんだよね。自己肯定感100%。
その幸福感に後押しされ、
家族の元に通ったり、
バイトを始めたり、
他者と関わりを持つことになった。
そして、今の私は、
挙句、人との関係に悩んでいる。
またしても。
自己肯定感が失われたわけではない。
自分を否定しいるつもりはないけれど、
今のままの自分を認められないでいる。
自分というより現実を、かな。
私の自己肯定感の低さは、
自己嫌悪、存在否定が原因だった。
自分が望む世界と現実とのギャップが
どうしても受け入れられなかった。
現実は過去の選択の結果であって、
私が認めないからといって、
どうにかなるものでもない。
頭ではわかっていても、
心がついていかなかった。
こうあらねばならない
自分に縛られていたから、
世界もこうでなければならない
とでも思っていたのだろうか。
そんな振り出しに戻ってしまった。
自己否定からは抜け出したものの、
肯定できてはいなかった。
全ては、私の勝手な思い込みなのだ。
理想の世界とは違う現実に傷ついている。
それは、たぶん、
愛されたかった自分が生み出した
これ以上傷つかないでいられる世界。
愛されたかった私に、優しい世界。
そんな都合のいい現実に辿り着きたくて、
自分にルールを課すから、
生きづらいのにやめられない。
人といるのが苦痛なのは、
傷つきたくないから。
むしろ、人といることで
傷つけているからかも。自分を。
愛されたかった私を、
私自身が嫌悪している。
どうしたらいいのかな。
愛されたかった私を、消すことはできない。
たぶん、死ぬまで。
問題を引き起こしてばかりだけれど、
彼女こそが優しさでもあるから。
愛ではないけれど、
愛が何なのかを誰よりも知っている。
愛らしきものが溢れる世界で、
愛と偽善を見分けることができるのも彼女だけ。
愛されたかった私は、
ネガティブで、批判的で、
現実離れした理想主義だけれど、
ダーティーな世の中を生き抜くための
智慧でもあるのかも。
なら、傷つくのは、生存の危機。
死んでしまうかもしれない恐怖?
ありがたいことに、
恵まれた状況にあるので、
傷ついたところで死ぬことはない。
けれど、生きている限り、
死の恐怖を味わい続けなければならない宿命。
そんな逃れられない生き地獄が現実であり、
現代的な苦しみというやつなら、
私が贅沢な苦しみだと断じていた
愛されたかった私の苦しみって、
思ったよりも深刻だったのかもしれない。
愛されたい自分が疼き出すと、
現実は即座に生き地獄と化す。
自己肯定感では、
愛されない現実に立ち向かえない。
だって、
その苦しみの質感は、死の恐怖だから。
人から嫌われても実際に死ぬことはないけれど、
心に突きつけられているナイフは、
相手の心情でも、愛されない苦しみでもなく、
死そのもの。死ぬかもしれない恐怖。
もちろん、保身からくる戯言で、
リアルな死とはくらべものにならないけれど、
愛されたかった私が感じている苦しみは、
私が思うほど軽くはなかった。
愛されない自分に喘いでいる時、
相手を、誰かを愛することなんて
できるはずがない。
死ぬかもしれない時に、
敵を愛せるとしたら、
前世はガンジーだよ。間違いなく。
愛されたかった自分が、
傷つかないように作り上げた価値観が、
人を愛せなくさせ、
愛されもしない自分の原因。
この悪循環を断ち切りたい。
愛されたかった私に、何ができるだろう?
今ある現実に傷ついて、
死の恐怖を味わっている相手に、
どうせ接したらいい?
傷つくことや、現実そのものから
逃れることはできない。
積極的にでないにせよ、
生きることを選んだ以上、
逃れられない死の恐怖を
味わうことになっている。
生きる苦しみと、死の恐怖はセットだ。
これまでの私のやり方は、最低だった。
愛されない現実に傷ついて、
怯え続ける私を労わるどころか、
ダメ出ししていた。
もっと強くなれ。
こんな弱い自分ならいらない
と切り捨ててきた。
誰かから愛されることなんか
期待してはいけない。
ありのままの私を愛せない人なんて
信用してはいけない。
ありのままの私を否定する人を
愛する必要なんかない。
そんな風に意地を張って、
我の強い自分を守ってきた。
守れているつもりだった。
愛されたかった私の味方になるには、どうしたらいい?
素直になって傷つくことを恐れ、
強がってしまう頑なな価値観を
どうしたら手放せるんだろう。
愛されることを諦めなくていい。
むしろ、期待したっていい。
私には、愛される価値がある。
愛されることと、信用は別物。
価値観が合わなくても、
その人なりに筋が通っているのなら、
信用はできそう。
なら、自分を偽らなければ、
私だって信用されるかもしれない。
愛されないからといって、
相手を否定しなくていい。
その人に愛されないからと言って、
愛される価値がないわけではない。
愛するかどうかは、相手の自由。
むしろ、私を愛さないからって、
相手の価値観を否定してきた私よ。
何様だい?
私は、愛したくない人まで、
愛そうとしているのかな?
嫌いにならないようにしているから、
相手からの愛を期待して、
裏切られて、傷ついている?
相手に愛させるために、
嫌いな相手を愛そうとしているとしたら、
そりゃ、疲れるよね。
愛されたかった私の味方でいよう。
生きながら、死の恐怖に怯えている
私のサポートをしよう。
私には、愛される価値があり、
愛する自由があることを伝え続けてみよう。
もちろん、愛さない自由も。
嫌いな人を無理に愛する必要なんかないことも。
価値観を変えたところで、
嫌いな人がいなくなることはない。
残念だけれど、それが現実の、等身大の私だ。
そんなちっぽけな自分でいい。
些細な理由で、人を嫌いになってもいい。
その程度の大したことのない人間性でいい。
だって、生きるために、
死の恐怖を味わっているんだから。
そのくらい大目に見ようよ。
いい人でいようとすると、辛いんだもん。
生きていたくなくなってしまうんだもの。
よりよい自分に変わりたいって思っていたけれど、
いい人でなくていい。
自分であればいい。
変わりたいのは、偽物の私。
理想を演じている私を脱ぎ捨てたい。
愛されるために、
自分を蔑ろにする自分から卒業したい。
この変化は、どんな現実をもたらすのかな?
いい人であれば、いい世界で生きられる
と思っていたけれど、むしろ、生きにくい現実だった。
傷口に塩を塗られ続けていたしね。
いい人でいなくなった現実が、
傷ついた私に優しい世界だといい。
ということで、
いい人をやめる30日間チャレンジでも
始めてみようかな。
fumori
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