自己否定は、必然だった。

人が怖かったのではなく、
自分の本性が怖かったみたい。

私の中には、
表に出したくない自分がいる。

劣悪な癖に、度胸がない。
強がっていなければ耐えられないくらい
脆くて、弱い。

悪を悪として切り捨てられず、悩んできた。
より良くなろうとして、苦しかった。
嫌な自分を許せなくて、辛かった。

けれど、私の中にある悪は、人間の本質。
つまり私は、人間性そのものに罪悪感を
抱いて生きてきたのだろう。


私たちは、今を命だ。
生きること以上の理由なんかない。

そのくらい命は利己的なもなのだけれど、
とても儚い。
支え合うことで維持されている。

人は独りでは生きられない。

利己的なくせに、命は互いを尊重し合う
ことでしか生きられない。

相手の命を大切に扱うことも生きるという
意味には含まれているのだと思う。

なので、和やかに、人の輪を保つという
ことは、自分の命を生かすためであって、
自分を犠牲にして、相手の機嫌を取ること
ではなさそう。

情けは人の為ならず。

相手の命があってこそ、
私の命も生きられる。
生きつつ、生かされている。

命に条件がないのは、たぶん、
個としての命という概念がないから。


問題は、命には自我が宿るということ。

自我は、我が身可愛さから自分を優先し
ようとする。命より、存在証明が最優先。

和を優先すれば、我は弱まる。
存在を証明するためには、当然、
我を張り、和を乱すことになる。

和を乱すことは、互いの命を削ること。

常識は、命を守るために生み出された。
何が良くて、何が悪いかが決められた。

従わない者は、社会から弾かれる。
互いを支え合わない命は、敵だから。

人並みに生きたいなら、従うしかない。
けれど、社会的に悪とされている行為は、
そもそも誰にでもある人間の本質。

清廉潔白な人間はいない。
悪いところなんかないフリをして、
上手に隠して生きているだけ。

社会で生きるということは、
誰もが持っている悪の部分を
ないものとして生きてゆくこと。

あるものをないとすること。
人間性を否定すること。

つまり、社会のルールを必要とする
組織や世間で生きるということは、
自己否定し続けるということ。

私の自己否定は、
社会的なものなのかもしれない。


命は利己的でありながら、互いを必要とし、
自我は存在するために、相手を利用する。

社会のルールは、
互いの命を守るためのもので、
人間性を否定するものではない。

それを押し付けと感じたのは、
命と自我の区別がつかず、それらが
なんであるかを知らなかったから。

社会の常識と私の人格との埋まらない
ギャップとして、片付けていた。

社会に受け入れられるために、
人格を変えようとした。
良い自分だけになろうとした。

けれど、悪い自分は、人間である限り
なくなりはしない。
余裕があれば、繕うことはできるけれど、
危機に瀕すれば、本性が剥き出しになる。

本性とは、人格ではなく、人間性。
たぶん、誰しもさほど変わらない。


そもそも命には善も悪もない。

ただ、社会で生きるためには、
共通の利害を損なわないため、
善悪を設定することになる。

社会的人悪とされたものも、人間の本質。
なので、社会で生きることは、
人の本質を否定し続けること。

人は独りでは生きられないくせに、
集団で生きるためには、自分の中にある
人間性を否定しなければならない。


前提が間違っていた。

社会と人間性は、矛盾している。
それが、真実なのだと思う。

社会的でない自分を否定してきたけれど、
そもそも社会的な人間なんていないのかも。

人間は社会的な生き物だけれど、
社会性は人間の本質ではない。

必要だから身につけるもの。

私の自己否定は、必然だった。

 fumori 

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