明日に繋ぎさえすれば、命の使い道は自由だと思うんだ。
「100%死ぬよ。人間だもの。いつかはね」
私は、死ぬつもりはないし、実際に死のうとしたこともない。
生きることが面倒すぎて、楽になりたいとは思っているけれど、死ぬことを心底、恐れている。
なのに、ここ数年、毎日のように死にたいというワードがやって来ては、胸をエグって去っていく。恐怖から怒りで反論したり、機嫌をとって宥めようとしたり、手を尽くしたけれど、効果はなかった。
それが、このところ胸が痛むことも、動じることもなくなった。いいこと分からないのだけれど、いつか死んでしまう自分に、諦めがついたからかもしれない。
私たちは、いつか、100%、死んでしまう。
人生のゴールは、死だ。
今日、一日を無事終えたということは、それだけ死に近づいたということ。それはもちろん怖いことだけれど、最近はホッとする。
決して死を望んでいるわけではないけれど、とりあえず、今日生きる義務は果たした。何も為さなかったとしても、明日へ命は繋いだ。今日を生き延びたことに安堵している。
何かを為さなければ、生きていてはいけない気がしていた。命はそのためにあると思っていた。
けれど、今日だけ生きていればいいなら、明日目覚めても、また一日の終わりまで生きていればいいだけ。
ただ生きることが命の役目なら、私はずっと、生まれてから今日まで、ちゃんと役目を果たして来たことになる。ずっと、為さねばならないことをやって来た。
屁理屈だとしても、肩の荷が降りた。
私が求めていた安心感って、これだったのかもしれない。
死んだらお終い。
その価値観が恐怖を増していたことに気づかなかった。
一度きりだからこそ、人生を価値のあるものにしたい。
そんな欲望が刺激され、充実感へのハードルが高くなっていた。それが、今のままでは生きる価値がない、という思い込みを生んでいた。
いつ死んでしまうかわからない命。
いつかは必ず死ぬ命。
私もそんなありきたりの命でしかなかった。なら、ただ生きて死んでゆけばいい。人生に価値を生み出すより、命に価値を見出してしまえばいい。
いつかの死を選ぶことで、何かを為さなければならない自分は消える。ただ、明日まで生きるだけ。
人生の目的は、生きること。
だからこそ、いつ死んでも仕方のない命を与えられている。死ぬ理由すらない命。死ぬことが決まっている命。
全ての死によって、天寿を全うしたことになり、今日まで命を繋いで来れたことに安堵する。天寿のご褒美が、安息。
生への執着が恐怖を生み、死を受け入れ、安らぎに変わる。
なら、人為的な死に安らぐことは難しいかも。怨念も執着だろうし。先祖供養って、現世への未練を断つことなのかな。
天寿であっても供養が必要なほど、未練なくこの世を去ることは難しいのかもしれない。
いつか私は、選択を迫られるだろう。恐怖か、安息か。
死を目前にして、どちらかを選ぶ。人生史上、最大の恐怖に怯えながら、安息という選択肢があることに、気づけるかしら?
死に際に、まぁいい人生と思えたら、安らかに死を迎えられるのではないか。
それが、始まりだった。
死の恐怖の前には、どんな人生であっても生は輝く。だから、私の最期はハッピーエンディングに決まっている。そう信じてはいるけれど、絶望に閉ざされた状態に光を見出すことは、とても難しい。
例え、足元が明るくても、希望を探している限り、視界は暗闇に覆われている。
人生は、何かを為すためではなく、生きるためにある。
何もしなくてもいいのなら、生きている間に、最期の選択の練習をしたらいいのでは?
絶望の中に、安息を、光を見出す。
楽しくない現実は、もってこいの修行場だ。
そんな練習を積むために、辛い人生になっているのかも。怖がりだから、余計、鍛錬が必要なのかもしれない。最期の安らぎを得るために。
現実に捉われず、明るい方へ目を向ける。
与えられた人生が、死と向き合う予行練習だとしたら、ポジティブに生きるために命を使ったらいい。
生きることに目的なんかない。ある人にはあるのだろうけれど、残念ながら私は見い出せていない。今のところ。
明日に繋ぎさえすれば、命の使い道は自由だ。
私は、この人生で何も為すことはできないけれど、せめて、死に際して安らぎを見出せるよう練習しながら生きてゆこうと思う。
fumori