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答えがないから、生み出せるもの。

ひっそりと
誰にも言えない想いを吐き出させてくれる場所。

それが、noteだった。ま、今もですけど。

人には言えない訳ありの本音は、
ハートウォーミングとは程遠く、
誰かに届いたらどうしよう、とか思っています。

ネガティブが過ぎて、読んでくださった方の
テンションが下がったら、申し訳ないなあ、とか。
自意識過剰ですけれど。

そのくせ、ポッと通知のサインがあったりすると、
スキかもしれないと期待していたりもします。

そのくらい、スキって、嬉しいんですよね。

そんなスキ数をランキングで見ることができる
ダッシュボードを開いてみました。たぶん、一年以上ぶり。

トップの記事だけ、やたらPV数が高い。
そのくせ、スキの数は他とさほど変わらない。

さほど心に響かない内容だったのかな?

と、なんとなく読み返してみたのですが、
これが、刺さること。今の私に。

昭和風に言えば、『尖ったナイフ』みたいな記事でした。

言葉の一つ一つに、その時の悲しみと願いと祈りが込められていて、
ただ痛々しくて、けれど、その痛みを素通りするくらいクリアで。

すべての文字が、救いを求めている。

たぶん、もう書けない。
今の私には、あんな純度と熱量の高い祈りは、生み出せない。


昨日、気づいたことがある。
ずっと求めて来た救いとは、なんだったのか。

救われたかったのは、現実を生きる私ではなく、
潜在意識に沈んだ澱のような本音。

人を傷つける自分が嫌いだった。

けれど、本当に隠しておきたかったのは、
人を傷つけてしまう自分に、悪意がない事。

嘘はいけない。
だから、嘘はついていない。

正しいことをしているはずなのに、
嘘じゃないのに、なぜ傷つくのか、怒るのか、
「なぜ、そんなことを言うの」
と非難されなければならないのか。

それが理解できない。
わからないのは、私が劣っているから?

恐れていたのは、ありのままの私。
ありのままの私の、悪意のない残酷さ。愚かさ。
そんな自分の本性に怯えている。

私は、この世界に存在していて、いいのだろうか?

自分さえ信じられない状態で、
理解できない世界を生きなければならない恐怖。

信じられるもののない世界。

そんな恐怖の世界を生きなければならなかったのは、
悪意のない残酷な本性を隠すことしかできなかった
私のせい。自業自得。

でも、悪意のない残酷な私は、悪くない。
やっとそう言えるようになれた。

ちゃんと罰を受けてきた。
悪意のない残酷さを裁く天秤はある。
私の心の中に。

自分の残酷さに怯えなくても大丈夫。

それが、悪意のない残酷かどうかを、
自我が判断しなくても、大丈夫。

人は、そういうふうにできている。

善悪に絶対のルールがないように、
相手との関係性の中で、許容範囲は決まってゆく。

許容範囲を超えた分は、ちゃんと罰を受けている。
自分を裁かなくても、ちゃんと裁かれている。

正当化しなくても、自責に走らなくても、
現実が、体感が、それを教えてくれる。 

嘘をついちゃダメなのは、自分に対してだけ。
天秤の軸が揺らぐから。

他者とは、天秤の傾き方を鑑みながら、
建前と本音を使い分けていい。

建前は、嘘じゃない。
悪意のない残酷さを表現しないための逃げ道。

関係性にルールはない。
正直者でも、八方美人でも、
好きに選んだらいいんだ。その時々の私が。

そう思えるようになれたよ。
筋の通った自分でなくてもいい。
通そうとしなくても、もともと頑固なのだから。

過去の私が、救いを求めてくれたから、
昨日の私が、答えを受け取ることができたよ。
ありがとう。

答えなんかないと思っても、
求めることをやめずにいよう。

誰のためにもならなくても、書いておいてよかった。

 fumori 


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