逃避していたのは、お行儀のいいつまらない現実の方だったのかもしれない。

自己肯定感を高めようとしたら、
なりたい自分になる努力をやめる
という結論に辿り着きました。

自己肯定感の高い自分になろうと
してはいけないということ。

本末転倒っぷりが半端ないのは、
自己肯定感は、現状を否定しなければ、
それだけで上がるものだから。

その上で、今日、ハッピーになりそうな
ことを探してみる。

今の私に必要なのは、それだけ。


自己肯定感が低いままやる気を出して、
ポジティブな夢を思い描くことは、
現実への不満と見做される。

そんななつもりのない向上心が、
現状を否定し、自己肯定感は下がる。

そんな踏んだり蹴ったりな法則が
私の世界にはあるらしい。

もちろん、私ルールなので、
私にしか適用されません。


なら問題は、自己肯定感の低さより、
今の自分以外になろうとすること、
かもしれない。無意識に。

嫌なことがあったから、現実逃避しがち…
なんてレベルではなく、夢の中が本宅。

日常ではなく、夢の中に私の人生がある。
そんな感じ。

現実は、なんだろう。
遊びに来たくなる場所ではないし、
行かなきゃならない場所かな。
お年玉の貰えないお正月の親戚宅とか?

あくまでも、子供心です。すみません。

私にとって現実は、
他所のお宅みたいなものらしい。

礼儀作法を守り、愛想笑いをして、
大人たちの偏見だらけの長話を
聞いていなければならない場所。

深くは関われない場所。
深くは関わりたくないつまらない場所。

夢の住人からしたら、今の現実は、
そんな風に見えているのかもしれない。


夢の世界の住人「夢子」の想像力は、高い。

逞し過ぎるほどなので、感受性は過敏気味。
現実は、いつだってタイトだ。

そんな子鹿メンタルな夢子にとって、
現実を生きられる自分になろうとすることは、
勇者でもないのに、
魔王と戦わされそうなんですけど??
なんてくらいに、
スパルタすぎる訓練なのかも。

なら、現実に夢子を合わせるのではなく、
夢子に合わせた現実を考えてみよう。

今、見ているのは、自我の現実。
一般常識と、これまで得た知識、情報、
成功体験、二度と恥じを描きたくない
という強い思い。

そんな思惑が焦点となり、重なった所が、
自我の視点。
そこから見た現実を、
リアルと思って生きている。
それが、今の私の現実。

なら、夢子目線の世界は、どんなだろう?

たぶん、常識とか、責任感とか、
いらないんだよね。
失敗しても、恥ずかしいとは思わない。
やりたいことしか、しないから。

なんか随分、気楽な世界じゃないの。
これじゃ、現実なんて生きていかれないよ。

そう思うし、そうなのだろう。
だから、夢子は夢の中でしか生きられない。

いい歳して、夢見てるんじゃない。
現実を見ろ、と責められている。

安心感しかない世界でぬくぬくしていたい。
それが、夢子の求める世界。
現実とはかけ離れたお気楽な世界。

そんな夢子の甘さが、
現実の足を引っ張っている。

最終的な部分で、夢子の甘さは、
夢を諦めることに繋がるから。
ただ、それは、今ではない。

現実は、一つしかないもの。

だから、
現実にそぐわない夢子は、排除された。
追放したのは、視点を持つ自我。

…ということは、
夢子が逃げた訳ではないってこと?

夢子は、理想を演じている自意識。
トラウマを抱えた幼い頃の私。
現実に傷ついて、いつでも逃避中。

なんて思っていたんだけど、違うの?

思考を支配する自我でさえ、
追い出すことしか出来ない意識。
なら、人格というより、
本能とか欲望とか、野生に近い。

自我に敵認定されたまま、
今なお、生き残っているほどしぶとい。

夢子は、強靭な個性かもしれない。

個性なら、無くすことはできない。

より良い自分になるために、
個性である夢子を排除してきたなら、
自己肯定感が下がるのも当然。

夢子を変えようとするのではなく、
夢子が生きられる現実を探す。
そっちなんじゃない?

だって、現実は一つじゃないから。

今ある私の現実は、
自我が認知している世界。

自我に承認されたもの以外は、
自動的に排除されている。夢子のように。

リアルとしか思えない現実は、
リアルな現実のほんの一部でしかない。

なので、自我が切り捨てた世界には、
夢子の生きる世界も含まれているかもしれない。

夢みたいな世界観を、現実に見出すことだって、
できるかもしれない。

自我の世界観さえ変えられれば、
夢子は容認されるかもしれない。
必要とさえされるかもしれない。

夢子のお気楽な世界が、
現実になるとしたら?

現実最高。人生安泰じゃない?


願った夢が、現実と乖離しているのは、
誇大妄想の場合もある。

夢子の世界がそうではいとは言えない。

けれど、精神の自由は保証した。
私の心は、妄想し放題を止められない。
なら、共存するしかないんだよね。

世界を認知できるのは、自我。
夢子の世界観を許容できる価値観が
見つかれば、ベスト。

そうでなくても、自我が認知する世界に、
夢子にとって心地よい現実を見つける。

やらなきゃならないこと。
こうした方がいいこと。
そんな基準ではなく、
面白そうなこと。楽しそうなこと。
無責任で、自由で、理屈がないこと。

そんなお気楽なハッピー感を探す。
お行儀のいいつまらない現実に
紛れているお宝を探す。

これって、
自己肯定感を上げる方法の一つだ。
「今日、ハッピーになれそうなことを探す」

自我の視点は、無意識のジャッジ。
必要ないとされるもの、
価値観にそぐわないものは、
世界から追放される。

それは、あるものを否定すること。
自我の視点が、現状を否認するから、
自己肯定感が下がる。

辻褄が合ってしまった。
自我の思考だけれど、丸め込まれてる?
ま、いっか。
夢子を見習って、気楽にいこう。

夢子という個性が、現実に有益とは限らない。
むしろ、自分に甘々な、悪魔かもしれない。

けれど、そんなことより、
無意識に現状を否定してしまう
自我の視界の狭さの方が有害。

夢子が心地よく夢を見られるように
ハッピー感を探してみよう。

つまらない現実は、自我の世界観。
もしかしたら、つまらなくない現実も、
存在するのかもしれない。

そうなったら、人生そのものが
お宝になりそうな気がする。

 fumori 

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