書評:伊藤 亜紗『記憶する体』
美学者であり、障害のあるひとの身体性について深く考察し続けている著者が、”体の記憶”をテーマに12人の当事者へのインタビューを元に一人ひとりの物語を紡いだ本書。
事故で手を切断しなければいけなくなった、ある日目が完全に見えなくなってしまう、というのはある意味、元々の自分の体から切り離され分断されることを意味しています。
本書に紹介されている一人ひとりはごく個人的な方法で、痛みやその状況と向き合い、究極のローカルルールを手に入れていきます。
19歳で完全に目が見えなくなった西島玲奈さん。彼女は目が見えないとは思えないくらいの精度で、メモを取り続けます。言葉による過剰なサポートを受けることが日常になっている彼女にとって、”書く”という行為は、他者を介さずに試行錯誤し世界と関わることを可能にしている、と著者は述べています。
40代になってから骨肉腫で肩を含む右手を失った倉澤奈津子さんは、手を切除した後も後悔し、塞ぎ込む日々を過ごされたそうです。
しかし「泣くのにもやがて飽き」、思い通りにならない相手、幻肢痛との、対話が始まります。現在は同じ当事者の仲間と団体を立ち上げ、技術者と共に3Dプリンターを使ったオリジナルな義手制作に取り組んでいます。
創作の過程で、苦しみの対象だった切断という事実を「面白がれるようになってきた」そうです。
ここでは本書の中でおふたりの例についてふれましたが、他の10人の方も違わず、今それぞれの方だからこそなし得るユニークな方法で、自分の体と付き合っています。
”書く”または”読書”という古くから存在する方法を通して、自分の体と向き合う人。
体を観察し制御することで、自分にとって心地よい付き合い方を獲得していく人。
ものを作ることを通して、痛みと距離を取る人。
家族の痛みを目の当たりにすることで、”痛み”が分有されていたことに気づく人。
はたまた3Dプリンター、VRで幻視を緩和する方法、筋電義手等、先端技術を積極的に取り入れている人。
この本を読むこと自体が、一人ひとりが痛みや状況と向き合い、無数の工夫を積み重ね、自らの体を編み直していく過程を追体験するようで、本当に尊く興味深い体験でした。
障害の有無に関わらず、ある程度の大人になると、いきなり全く経験のない環境に飛び込んだり、今までのやり方を変えることを余儀なくされたり、ということが増えてくるのではないかと思います。
与えられた状況の中でなんとかやろうとするも、うまく噛み合わない…なんてことも私はよくあります。
そんな風になんとか大人をやっている私にとって、この本は贈り物のように感じられました。
過去を否定するでもなく、しがみつくでもなく、自らの手で無数の試行錯誤を繰り返し、自らの人生を編み直している12人の賢者、そしてそれを深い洞察の元に紹介してくださった著者に感謝します。