変わりたくはないのだ
あぁ、そうか、、、
あれからだ
ここ数年のトラブル続きのおさらいを
とどめのインフルエンザでのお休みを利用して
振り返っていた
以前、医者の信じられないような
大きな家を預かって、
イベントスペースをやっていた時、ちょっとやらかしてしまって、イベントスペースを閉業することになり、その片付けと、再婚の引越しが、全て同時になってしまった、あの頃から訳のわからないトラブルが続いている。
大家である医者の娘を当然怒らせてしまい、給与までストップされた 笑
ちょうど、中学進学で息子のあらゆるものを準備しなければならない時にすっからかんだった私は一体どうお金を工面したのか。
あまりに必死だったのでよく思い出せないが、情けないことにやらかしでかかった修理代も含めて、母親から借りたんだった。
銀行に相談に行ったけど、当然、貸してもらえず、私の価値はものの10分ほどで10万円と判断され、それじゃぁ到底足りないからとお断りした、という言い方も変か、向こうから頼まれたわけではない 笑
そういやその頃、同級生も困っていて、泣きながら2人で夜の駐車場で話したっけなぁ。
何でこんなにビンボーなんだ!!
二人ともシングルマザーだった。
その彼女から、銀行からフリーローンでお金を借りたと聞いて、なら私も!と借りに行ったのにダメだったという情けない話。
もう闇金しかないかと思ってた。
でも、勇気を出して銀行の窓口に行った私に同情して母が貸してくれたのだ。
あ、でも、あれからだ、なんて冒頭に書いたけど、私の人生は決してスンバらしいものではないのはもうずっとである。
幸せだなぁと思ったこと、
人生のうちで後悔していないことは
息子を産んだことと今の夫に出会えたことくらいか 笑
いや、それ以上のことはないね。家族に恵まれているのだから、贅沢を言ってはいけない。
あとはいろんなことが因果応報で
あれをやったからこれが起こって、
それでこうなって、、、、とつながるけど、、、
じゃあ、息子が生まれたこともつながってんじゃないの?
自分に起こる度重なる不幸は息子が生まれたことで起きたこともあるんじゃないの?
と思ったとき、なぜだろう、社会の仕組みや人のせいにしてきたはずなのに、息子のせいにだけはならないのだ。
そして夫のことも、腹が立つようなことはあれど、離婚しようと考えたこともあっても現実にはならない。てか、離婚する気はない。
つまりは、考えようなんだな。
今、実は自分の身に起きたここ数年の信じられない不幸の連続を書こうと思ってnoteを開いたんだけど、書き綴っているうちにふと思った。
脳科学者の茂木先生が
人の悩みは頭の中で作られるというが
まさにそれを実践している私である。
ASDは過去に自分を置き
ADHDは未来に自分を置く。
そんな傾向があるそうだが
私はADHDの傾向が強くて、なかなか過去を振り返ることができない。
ASDは逆に、過去から今現在のことばかりで未来を想像するのが難しいようである。
ADHDの私から見れば、終わったことや目の前のことより未来のために動こうや、と思うのだけど、ASDから見れば過去と同じ過ちを繰り返すADHDを見て、またやってるよ、アホかと思っていることだろう。
そんなADHD傾向の私が、あまりのハプニングの連続に、いったい原因は何なんだ?とやっとのことで最近思い始めた。
物事には原因があって、そして結果があるものだ。
全てそうなのかどうかは、私は世の中の全てを知るわけではないからわからないけど、大概のことには原因がある。
ただ、私が今考えておきたい原因とは
インフルエンザウイルスが蔓延しているところに遊びに行ったからウイルス感染し、今、インフルエンザを、発症している、というような、物理的かつ科学的なことではない。
何というか、科学的エビデンスというようなものではなく、あまり好まないのではあるが、もっとスピリチュアルなイメージ、どちらかといえばこう、呪われてんじゃね?的な、私の力じゃどうしようもないような理由があるんじゃないかと思うのだ。
ばかげている。
そう思うんだけどさ、これだけ連続して不幸な目にあってみてよ、
なんでやねん、呪われてるんじゃね?って本気で思うようになるから 笑
あ!
そうするとあれか、幸せになるツボを買ったりするわけだ 笑
あり得ない、、、
せめてお祓いするくらいのことかなぁと思っているけど、したからどうなる、という気持ちもあるから効果ないだろうなぁ 笑
にしても、だ。
昔、スピはわりと好きだったのに、今は毛嫌いするほどになった私でもこんなことを考えるようになるとは相当追い詰められている 笑
誤解を受けないように言っておくが、スピリチュアルなことを物事を検証するときに引用することについては別に嫌ではない。
私が毛嫌いしているのは、この目に見えず、科学がこれだけ発達した世の中でエビデンスのない、人の心とか気持ちのみが支えるこの世界観を利用して、本当に困った時の神頼みをしている人たちを食い物にしているような連中だ。
程度問題で、ちょっと占い一回1000円なんてのはいいとしても、幸せになるツボ100万円なんてのが嫌だ、ということ。
今は発達障害で子どものためならワラにもすがりたいお母さんたちを騙す輩もいる。
でも、計り知れないパワーというものは存在するだろうと思っている。
私も不思議体験したことないわけじゃないし。
今ではたくさんのことが解明されていて、いわゆるエビデンスのないものというのは本当に少なくなってきたけれど、占いも統計学で、例えば厄年なんかは、その年齢は大変なことが多く起こりやすいから気を付けなはれや、的なことなわけで。
だいたい大まかに見れば、同じような人生を辿る人間の(今はかなり多様化してきたけども)先人の知恵に似たものであり、スピリチュアル、と言ってしまうとちょっと違うかなぁというものもある。
そーなのよ、よーするにね、私はそんな年代なのよ、きっと。
40代という年代がそうなのだ、きっと。
子どももある程度大きくなり、問題もおしっこ漏らしちゃった的なものでは済まなくなってくるし(結構なお金が絡んだりする)
もしかしたらだんだん両親が病気になり介護が始まる、または亡くなってしまうなんて人もいる。ちなみにうちの母は生きているが、5年ほど前に生死を彷徨った。
夫に先立たれました、なんて方も私の友人だけでも二人はいる。
自分自身が病気になって闘病生活、なんて人もいるし、女性ならだんだんホルモンバランスも崩れてきて、更年期。
そしてそんな不安定な時に子どもは思春期、反抗期を、迎え、うちもそうだったけど、本当に切ない時に、反抗期で大喧嘩を繰り返した。
そして親元を離れ進学していく。その寂しさと更年期が重なって空の巣症候群なんてものもあるくらいだ。
40代といえばそんな年代なのだ。
なんだ、エビデンスも何もない、私が悪いわけでもない、そういうお年頃なのか。
インターネットで検索すれば出てくるような程度のことだから程度はあるにせよ、一般的にあることなのか。
更年期も本当にキツかった。
仕事にも恵まれなかった。
息子のゴタゴタで自営の店も畳まざるを得なくなり、それだってタイミングの問題で、更年期だったり、訳のわからん難病になったり、息子の進学はめでたいことだし応援しているのだからそれはそれで全く問題ないのだが、支えるこちらの方がバタバタで申し訳ないのだ。
そんな母親に息子は俺が頑張る、と言ってくれる。時にムカつくけどやっぱり可愛い息子である。
少しずつ反抗期も終わりそうである。
どう解決していけばいいんだろう。
まだ残ることもある。
昨日、旦那くんが私の病床に(というと大袈裟だがインフル3日目である)テレビを運び込んでくれて観たNHKのドラマのセリフで
『人はなぜ、
生きてるだけで
悲しいことがたくさんあるのに、
人は人に悲しいことをするんだろうなぁ』
というのがあった。
ひたすらにやさしい口調の主人公の
ポソポソとしたセリフが
ズッシリとかそんなんじゃなくて
水に水が流れ込んでいくみたいに
自然に入り込んできたくせに、
昨日からそのセリフが私を涙ぐませて、
少し苦しめるのだ、、
私は人を悲しませている。
悲しませようとしている。
今回の私の悩み事を解決するのに
人を悲しませなければならないのだ。
もちろん、そもそもは相手が約束を違えたことから始まっているから、自分も悲しまされているのだけど、だからと言って、人を悲しませるのは違うんじゃないか?
とりあえず、とか
テスト前の一夜漬けみたいに人生を駆け抜けてきた私。いつも一瞬芸みたいな人生だった。
継続したことは子育てくらい。
そうやって人を大切にしているようで、本当にしてきたのか、といえばしてなかったんじゃないかと思うし、それは結果、自分を大切にしてこなかったことになって、そのツケが、今、回ってきてるだけのことなんじゃないのか?
やさしい世界を作りたかったんじゃないのか?
悲しいことをするんじゃなく、やさしいことをしたいんじゃなかったのか?
今、身を置いているところは
私らしさを否定される場所で
私が発達障害であることはわかっているが
それをよしとしないところである。
セミナーに行ったり、勉強をしたりして
自分の特性をなんとかしろと言われる。
無理なんだってば
無理だから障害なんだ。
発達障害だけじゃなく、障害に対しては変えるのではなく、それとともに生きていく、というのが今時の障害に対するスタンスになりつつあるというのに。
でもね、その中ででも気づくことがあった。
私は、私が好きだ、と言うこと。
これは大発見だった。
変われと言われて
変わりたくないと心から思う自分を発見した。
車を運転すれば道を間違う
買い物すれば忘れ物したり買い忘れしたり
洗い物も苦手だし掃除もできない
お金の管理も苦手だし
すぐ怒るし、すぐ笑うし、すぐに泣く
その人が言うには私は人のせいにする癖があるのだそうだ。
そして私は人にマウンティングするらしい 笑
マウントするネタもないけども、相手がそう思うなら仕方ない。
ま、でも多分、簡単に言えば
お前生意気なんだよ、ってことなんだろうと思われます。それなら自覚ある。笑。
でも、だからなんだ、それが私だ、それが嫌ならおつきあいしていただかなくて結構、と思うからなんとも言えない 笑
人のせいにする、というのは、私にしてみれば何か起こった時の報告の中で、誰それさんが何をして、私がこうして、そしてこうなった、という単なる経過を話そうとしているのに、私の話の中に別の人の名前を登場させただけで、その人のせいにしている、と言われるのだ 笑
どーすりゃいいの 笑
その人は、人を騙す自己啓発セミナーでよく出るセリフの『自分が源』と言う言葉をよく使う。まぁ、実際ハマってらっしゃるのだけども 笑
前に書いたけど私はその言葉が大嫌い。
最近よく言う、自己責任論ってやつ。
私ゃ、世の中に起きていること全て、自分が源とは思えないね。
そりゃ、こんな世の中にしてごめん、と後世の人たちには思うけれど、じゃあ、私が原発を思いついて作ったかといえばそうではないし、イランにミサイルを落としたわけでもない。
今日は京都の市長選挙の投票日なんだけども、その候補者の1人でぜひ私が頑張ってほしい福山和人氏が
『そのしんどいのはあなたのせいやない、政治のせいや』
と言ってくれた時、長年そうだと言い続けて、訴え続けてきたことが、いいとか悪いとかじゃなく、同じ思いだったんだ、と思っただけで、本当に嬉しかった。
困って悩んでも自分の責任だけではどうしようもないことは世の中にたくさんある。
それは、あなたのせいではなくて
政治の責任。
ウルグアイの元大統領、ムヒカさんが仰っていた。
人の幸せは政治が作る
と言う言葉を日本の政治家に贈りたい。
私に度重なる不幸な出来事だって
政治のせいではないけど、政治で解決できることもあったはず。
息子の学生服を買うお金がなくて本当に困った時、市役所でお金を借りることもできたかもしれないし、もっと大きく出れば、そんな家庭のためにレンタルの仕組みを作ったり、または制服なんて制度そのものをやめる、と言うことだって考えられる。
だいたい、年間1000万稼ぐ家庭も、200万も稼げない家庭も、みんな10万円以上もかけて中学の準備しなきゃならないことそのものがおかしいし、義務教育なのになんでお金払わなきゃならんのかと言う疑問も生まれる。
制服が嫌で不登校になった子もいるのだから、そんなもの廃止してしまうか、欲しい人だけそれを買って着ればいい。
要するに、もっと自由な世の中になれば解決できることなんかたくさんあるのだ。
もっと自由になる、とはどう言うことか。
もっと多様化を認められるようになる、と言うことだ。
そんなことは許せない、あり得ない、と言う考え方をやめて、それもアリだね、と、一人一人を尊重する。
そんな世の中になれば、自殺者も減る、子どもを産む人も増える。
そして、そのことは、今の政権が変えようとしている憲法にもちゃんと書いてある。
それが、人権、である。
憲法13条にちゃんと書いてある。
昨日のドラマのセリフ、もうひとつ。
『こころのケアって、、
何やろなぁって考えてんけど、、
一人一人が尊重される世の中を作ることなん
やないかなぁって、、、』
私は変わりたくない。
もちろん変わりたい人は変わればいい。
それでいいのに、変わることを強要されるのはおかしい。
嫌だと思うことや、これ違うだろと思うこと、それを自由闊達に言えなくなってきたこの世の中を、もっと怖いと思わなければならないと思った。
このままだったらどうなるか。
いつのまにか戦争が廊下の隅に立っていることになる気がしてならないのだ。
自分を好きでいることはとても難しいことなのかもしれない。だって否定されることの方が多いもんね。
自己責任論が横行する中で愚痴ろうものなら
『それはあなたが悪い』
と言われる。
それ、矛盾してない?
自己責任と言うならあなたの責任でもあるんじゃない?
自分が源だって言うならいまの社会を作ったのも自分たちだと言う自覚はないの?
自分が源といいながら結局あなたが悪いと言うならやっぱり他人に責任を押し付けていることになってると言うこともわかんないくらい、盲信しているあの人が滑稽でさえあるし、可哀想でもある。
責任を取らなくて良い、という意味ではない。
あらゆる事象を全て自分のせいにするのは違うんじゃないかと思うのだ。
だから死にたくなっちゃうんだよ。
困ったことが10あるとして、そのうち5つは解決できたけど残りの5つはどんなに努力しても解決できないということがあるなら、それは、あなただけの責任ではなくて、社会の問題なんじゃないかと思う。
例えば、不登校がめちゃめちゃ増えていて、自殺者も全体数は年間1万人は減ったのに若者の自殺は増えている。
学校に行くor行けない
= Live or Dead
っておかしくない?
学校に行けないことって死ぬほどのことなのかな?
学校に行けない、君が悪いわけじゃない、他にもたくさんいるもの。
だから、私は変わりたくない。
変ろうとも思わない。
この社会の仕組みに、全てイエスとは言いたくない。
変わるということは、それに合わせて容認する、ということだ。
人の権利や命、気持ちよりも大事なことなんてないはずなのに、それ社会じゃなくてあなたが悪い、だからあなたが責任を取って変わりなさい、という考え方は大嫌いなのだ。