【第6回】不眠症のどん底で、人体に起きることを具体的に書きます。
眠りが深くなる季節がやってきました
やっと寒くなってきましたね!
この連載のサムネは、友人のデザイナーrinoちゃんが毎月4枚描いて納品してくれているのですが、「寒さに震えるめバチねこ」をやっと使えるような気温になってきました。
こうして気温が下がる季節は、睡眠に神経質な人にとって、「春眠暁を覚えず」の季節と並んで嬉しいタイミング。
夏場と比べて急にぐっすり深く眠れるようになります。つい数日前など、私には非常に珍しく平日に1時間も寝坊してしまったほどです(なんと8時間爆睡)。その理由については、また専門家にもヒアリングしたりして解き明かしていきたいところですが、思うに、布団が程よく冷えている状態が入眠にちょうどいいのではないでしょうか。
ちなみに、「春眠暁を覚えず」の季節、つまり3-4月頃は、1年でもっとも不眠治療に適した季節なんだそうです。私の減薬・断薬治療を担当してくださった心療内科の先生が「(治療を)始めるならこの季節」とおっしゃっていました。
「どん底」で私の心身に起きていたこと
さて、前回は人一倍、自制心が強いと思っていた私が、いかにして3年間で「薬漬け」になってしまったかについて書きました。
今回は、すっかり「薬漬け」になっていた不眠症のどん底で、私の心身に何が起きていたかを綴っていきたいと思います。2019年から2020年初頭にかけて、今から4-5年前の話なので記憶を辿りながら、可能な限り具体的に描いていきます。
2019年の時点で、不眠症を発症してから2年ちょっとが経過していました。娘は保育園の4-5歳、仕事は相変わらず自営業としてバリバリやっていました。テレビのコメンテーターの仕事が始まり、ライフワークとして長崎県・五島列島で法人も立ち上げるなど、これまでの「PCに向かう仕事」に加え、「人前に出る仕事」や「泊がけの出張」が増えていました。
今から思えば、「人前に出る仕事」や「泊がけの出張」が、「眠れなかったら昼間がつらいな…」というプレッシャーに拍車をかけ、状況をさらに厳しいものにしていました。
目の前の人が誰かわからない…という恐怖
不眠症が行くところまで行くと、人体に何が起きるのか?
実にさまざまなことが起きますが、
まず顕著なのが「記憶力の低下」です。
これはもう本当に恐ろしいほど何も覚えていられなくなります。
例えば、今、目の前で打ち合わせをしている人の名前や肩書きはおろか、所属先さえも思い出せなくなります。1on1で仕事の打ち合わせをしながら、もうこれまで何度も会っている人の名前を、必死で検索しているというのは、「どん底」にいた頃の私にとって日常茶飯事でした。
コメンテーターをしていても、クロストークをすることになっている5-6名の名前が2時間ほどの収録時間内にまったく覚えられないので、最後まで座席表を手放せず、発言のたびに名前を何度も確認しては「先ほどXXさんは〇〇とおっしゃいましたが〜」と、恐る恐る呼びかけるしかない。
パーティーなど、不特定多数からランダムに声をかけられる状況は恐怖でしかない。「予定をカレンダーに登録しなきゃ」と思った瞬間忘れるので、ダブルブッキング、トリプルブッキングが後を絶たない。娘に本の読み聞かせをする時に何度も同じ行を読み上げていることに気づかない。送らなくてはいけないメールやチャットを送ったかどうか覚えてないので、何度も送信済みになっているか確認してしまう…
などなど、記憶力が絶望的に低下してしまうことによって生じた事態は、こうして思い返してみても、ヤバすぎることばかりです。よくこんな状況で発症前と同じ仕事量をこなし続けていたものだと我ながら空恐ろしくなります。
全身が痛くてカバンが持てない
記憶力の低下の次につらいのが「全身の痛み」です。
不眠症でなくても寝不足だと、肩が凝ったり、目の奥がぼわ〜んとだる重かったりすると思います。数年にわたり慢性的に眠れていない状態が続くと、これを何倍にも煮詰めたような鈍痛に全身が包まれます。
まず片手でカバンが持てなくなりました。
身体の片側だけに重さがかかると、ただでさえひどい肩こりが余計にひどくなり、夕方になると吐きそうになってしまうからです。
そこで、仕方なく、リュック生活に切り替えました。
しかし、そのうちにリュックも耐えられなくなりました。
ある時、リュックを背負いながら銀座の街を歩いている時に、「もう無理!!!」と叫びそうになりました。そして、そのまま目の前にあったLoftに駆け込んで小型のキャリーバッグを購入、トイレで荷物を詰め替えました。
以降、「どん底」時代は、キャリーバックで移動が基本スタイルとなりました。都内の打ち合わせにも1泊用の小さなキャリーバックにPCやケーブル類、当時ハマっていた健康器具を詰め込んで移動。あまりにつらい時はタクシーを拾い、運転手さんに「X時までに◯◯に着いていたら大丈夫です。高速に乗らず地道でできるだけ時間をかけて行ってください。その間、寝かせてください」と伝えて、靴を脱ぎ後部座席で横になっていました。
たぶん「薬の副作用」の方が大きい
これは減薬・断薬治療をスタートしてから気づいたことですが、こうした「全身の痛み」は、実はかなりの部分、不眠症そのものというより薬の副作用によるものでした。
その証拠に、薬をほとんどゼロの状態にまで減らしたものの、まだ自力で眠れはしないという治療の途上にあっても、「全身の痛み」はかなりの程度軽減していました。眠れはしなくても薬が抜けただけで、身体症状は相当ラクになったのです。
「薬を飲んで多少眠れる」と「薬を飲まずにほとんど眠れない」
どっちがつらいかと問われれば、確実に前者の方がつらかったです。次に書くように、不眠からくる「つらさ」は他にもいろいろありますが、この「全身の痛さ」は起き上がって座っている気力さえ挫くもので、とてもダメージが大きいのです。
あの頃の自分が生み出した「ムダの山」を前に
記憶力の著しい低下と全身の痛みーーそれ以外の症状では、思考力と、長期的な展望を描く力の欠如があります。
先日、自宅の納戸と書斎の書類箱の整理をしました。そこには独立してから約10年間の仕事関係の書類の他、大量の制作物や納品物が保管されていました。その一つ一つを取り出しては、もう保管の必要のない物をゴミ袋に詰めたり紐で結んだりして片付けていた時、ハッとしました。
「ムダな動きが多すぎる」
不眠症で苦しんでいた期間、私は第1回で書いた「コンサル仕事」のかたわら、たくさんの新規事業を立ち上げようとしていました。立ち上げたものの実らなかった新規事業の残骸が、納戸や書類箱からどんどん出てくるのです。
思い通りに動かない心身を鞭打って、何かを生み出そうと懸命にもがいていたのだと思います。ムダな名刺、ムダなサービス案内、ムダな企画書、ムダな提案書、ムダなパンフレット、ムダな封筒、ムダなレターヘッド…ムダなものしかありませんでした。
元気になった今の自分から見ると、そこには明らかに、客観的な事実に基づく、合理的な戦略と具体的な構想が欠如していました。ただ、安心するために動いていた(ふりをしていた)としか思えない、ムダな努力がホコリを被って堆積していました。
この他の症状としては、肌荒れ(背中などに謎の黒斑があらわれる)、円形脱毛症、言葉が出てこない失語症のような感覚など、いろいろなことが身体に起きました。不眠症との直接の関係は不明ですが、いずれも不眠症が完治した今はすっかり消えています。
はた目にはわからないのだと思う。
こうしてnoteに赤裸々に書いていると、「どん底」時代から一緒に仕事をしていた仲間に「え、そんなに大変な状態だったの!?」「全然気づかなかった!」「いつも元気そうだったから」と口々に言われます。
そう、きっと、そんなもんなんです。
はた目にはわからないものなんだと思います。
眠れなくて肌荒れしてたって、目が充血してたって、黒々としたクマを作っていたって、いろんなことが思い出せなくて口ごもったり言い間違えたりしていたって、まわりはたぶん気づかない。今の私だって、隣に不眠症の人がいても、本人が申告してこない限り気づかないと思います。
周囲が鈍感なのではなく、ただそういうものなのでしょう。
不眠症のつらさが理解されないつらさ、あるいは家族や近しい人が不眠症でも何もしてあげられないつらさ、についてはまた別の回でちゃんと書きたいと考えていますが、
当事者もそれ以外の人も、誰もが、
「不眠症は理解されづらいもの」
という前提に立つことがまずは大事かな、と思います。そこから症状に悩んでいる時の身の守り方、あるいは周囲の人の言葉のかけ方について、正解っぽいものが見えてくるんじゃないか、と。
次回は、閑話休題、あまりにセンシティブなテーマなのでどう書こうか考えあぐねてい「薬の話」を2回にわたって詳しく書いていこうと思います。