聖者参詣(2) ヤフヤー・エフェンディ
イスタンブルに眠るスーフィー聖者といえば、アジア側ウスキュダルのアジズ・マフムト・ヒュダーイー、ヨーロッパ側ベシクタシュのヤフヤー・エフェンディが特に有名どころかと思います。
11月中頃、友人からのお誘いがあり、早速ヤフヤー・エフェンディの許へ行ってまいりました。誰かと一緒に行くと毎回色んな発見があって楽しいです。お参りさせてもらうのは今回が2回目でした。
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ベシクタシュの海岸沿いの喧騒を抜けて、オルタキョイへと続く並木道をすすむこと約10分。それから標識が示すままに、こんな坂を登っていきます。
施設名としては、Yahya Efendi Türbesi (墓廟)あるいは Yahya Efendi Külliyesi(キュリイェ: 複合施設のこと)と呼ばれます。元はヤフヤー・エフェンディのテッケ(修行場)だったそう。
※構造とか細かいことはこちら→https://islamansiklopedisi.org.tr/yahya-efendi-kulliyesi
ここもまた大建築家ミーマール・スィナンによるものらしいです。木造。
モスク部分はこんな感じです。
ここは集団礼拝の時間帯になると男性限定のエリアになります。2階の柵の奥が女性用のスペースです。全体的に色調が柔らかでおしゃれな内装です。
モスクの後ろ側が廟になっています。
窓の向こうはボスポラス海峡。素晴らしい景色。キブラ(メッカの方向)は海側に向いています。
ヤフヤー・エフェンディは、夢の中でのある人物の導きにより、聖ムーサーと聖ヒドルの出会った地として認められる"Hıdırlık"という名が与えられた土地にテッケを建設することを決めた、と伝えられています。
イスタンブルのヨーロッパ側とアジア側を隔てるボスポラス海峡は2つの海が出会うところとしてスーフィーたちの間でも象徴的に描かれることがありますが、この地をムーサーとヒドルの出会った場所と見ていたことは面白いですね。ふたつの海、ふたりの対照的な人物の「統合」の場所・・・
墓廟の入り口は別です。
かのカーヌーニースルタン(スレイマン1世)の娘やアブデュルハミト2世の娘などの宮廷の関係者と同じ空間にヤフヤー・エフェンディやゆかりのあるスーフィーたちが眠っています。
棺の周りを囲む、真珠の飾りであしらわれた木製の柵のようなものは、アブデュルハミト2世が自らの手で作った、という説があるそうです(友人談)。公開されているのは復元かもしれないですね。詳しいところはわかりません。(←後でちゃんと調べられたら加筆するかもしれません)
最後に外側のお庭部分を見学しました。
柔らかな潮風が吹いていました。
<ヤフヤー・エフェンディについて>
1495年生まれ、1571年没。Bektaşî Yahyâ Efendi/ Molla Şeyhzade.トラブゾン生まれ。
スレイマン1世の治世に活躍したミュデッリス、スーフィー、詩人。スレイマン1世とは同じ母乳を飲んだ兄弟(süt kardeşi)ということでも知られ、かなり近しい仲だったことが伝えられる。スレイマンはイスタンブルにおいて初めて建設したメスジドに、ヤフヤー・エフェンディの母の名前をつけている。スレイマンは自分よりも2、3日だけ早く生まれたヤフヤー・エフェンディのことを兄と呼んで敬愛し、何度も自ら彼の元を訪れたそう。スレイマンの父であるセリムからの信頼も厚く、個人的に親密な仲を築いていたらしい。度々、スルタンへの進言を行ったらしく、クズルバシュの反乱について注意を促すなど、かなり重要な警告もしていたとのこと。(宮廷内の決定にも関わる精神的な相談役、という感じ。)
イスタンブルの船乗りたちに海峡の守り人として崇拝された四聖者のうちの一人(ほか3人は Aziz Mahmud Hüdayi, Yuşa Peygamber, Telli Baba)。修行場を立建てた土地が非ムスリムが特に多い地域であったことと、船乗りたちの中にはキリスト教徒も多かったということで、ムスリム以外の訪問者も多かったらしい。彼から直接お祈りをしてもらったり、私的なお願い事したり。聖者伝には、ヤフヤー・エフェンディが遭難の危機から救ったキリスト教徒の船乗りたちがムスリムになったということが伝えられていたりと、異教徒たちとのエピソードも多い人物。
どのタリーカに所属していたかということに関しては確かな情報はないようで、Üveysîという名前のタリーカ出身ではないかという説が唯一あるそう。有名な説として知られているのは、聖ヒドルと出会い、彼から直接イジャーゼット(教導の役につく許可、道を極めたことを示すもの)をもらったという説。スィルスィラが見つかっていないこと・彼の後継者についての言及がないこと・彼に関する資料においては(シェイフであったことよりも)ミュデッリス職に関わる記述がより優先的に残されていること・同時代のウラマーたちの間でよく名前が挙げられていたことなどの要因で、彼のスーフィーとしてのアイデンティティについては謎が多いらしい。没後は、彼のテッケはカーディリーやナクシュベンディーといったタリーカ出身のシェイフたちによって運営されたことが明らかになっている。
俗世に身を置き、貧しい人々へももの惜しみない対応をしたことから民衆にも愛され、タリーカの所属を問わず多くのスーフィーたちからも慕われ、生前も彼を訪ねてくる人はとても多かったらしい。エブリヤー・チェレビーが旅行記において、アヤ・ソフィアでのヤフヤー・エフェンディの説教を待ち望んだ人々が、当日の3日目から待機し始め、堂内は足の踏み場もないくらい満杯になったということを伝えている。
本当に当時から絶大な人気を誇る人物であったことは間違いなく、ミュデッリスとして学問を極めた人物・スルタンも頼りにしたほどの霊的な力に恵まれたスーフィーとしてイスタンブルの歴史に名を残すことになった。
(参考)https://islamansiklopedisi.org.tr/yahya-efendi-besiktasli
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(余談)
今回、ヤフヤー・エフェンディ廟のすぐそばにあるモスク(Küçük Mecidiye Camii)にも足を運びました。長い改修作業を経て今の形になったそうですが、すごく綺麗なモスクでした(友人曰く、綺麗すぎるのが気になる、とのこと)。ちょうどお昼の礼拝の時に行きましたが、人も少なく静かでした。長く大きな窓が特徴的。
↑スルタンの礼拝スペース、今でもそれっぽく幕がつけられています。(立ち入り禁止スペースになってました)
この形のミナレットは珍しいらしいです。
オルタキョイの有名なモスク(こちらはBüyük Mecidiye Camii)にも連れて行ってもらいました。(初めて)
こちらは激混みに近い状況でしたが、やっぱり綺麗でした。
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