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翻訳ノート(前夜)

 今年度は(1)翻訳、(2)博論、(3)フィールドでの体験を文章にすることをまず目標とすることにしました。何となく博論を2番目に置いてしまっています。これをやらずして前に進めない気がすると思い立ち、敬愛するニヤーズィー・ムスリーの『存在一性論考』(Risâle-i Vaḥdat-ı Vücûd)をここ最近とくに集中して翻訳しています。できれば秋くらいには完成させたいです。

 というのも、コロナ以降「死」を本気で意識するようになり、最近でも色んな人の訃報を聞くたびにいやでも自分の死期について考えるようになりました。明日は無いかもしれないという「明日やろうは馬鹿野郎」的な言説というのはイスラームにもあって、スーフィーたちの多くも「今この瞬間」を生きることの大切さを語っています。「時の子」という概念もそのような教えでありますね。

「時の子」(ibn-i vakt/ Ar. ibn al-waqt):
「真実在者がいつ何時、修行者に恵みを与えて、突然、真実在者の前に呼び出すかわからない、であるから修行者は行住坐臥修養を絶やすことなく、真実在者の呼びかけに答えられるように準備しておかなければならないという思想にもとづく概念」

松本耿郎「ジャーミーの『ユースフとゾレイハー』における愛の人間完成学」『サピエンチア』45号、2011年、95頁

 1日5回の礼拝を時間内に行うという義務があるムスリムの基礎みたいな用語であります。
 メヴラーナー(ルーミー)の詩にも出てくるらしいです。

スーフィーとは"時の子"である おお親愛なる友よ
"これは明日に"と言うことはタリーカの原則からくるものではなかろう

※後日原文調べます(汗)


 ムスリーの詩にも次のような言葉がありますね。

Dünyada ölmezden evvel ḳıl sefer
Hiç idinme bir maḳâmda sen ṭuraḳ
Yoḫsa bu fırṣat bize bâḳî değül
Menzil al düşmeden ortaya fırâḳ

現世において死す前に旅せよ
君よ どの階梯でも決して留まることのなきように
さもなくば この機は我らにとって永続するものではない
道を進め 別れが訪れる前に


(注)この詩に関連して、ブルサにいるスーフィーのおじさんに尋ねると、「我々人間はいつ何時も自分自身に不足を見出すべきなので、いつも自己に満足することなく進まなければいけない」ということだと教えてもらいました。それから、彼の師匠であるアリ・デデ(「デデ」はおじいさんの意味)の「今日は昨日のアリをゴミ箱に捨てる。明日がくれば今日のアリをゴミ箱に捨てる」という言葉も教えてくれました。傲慢さというのは、神が最初の人間であるアーダムを創った時に悪魔がサジダ(跪拝)しなかったという話に象徴されるとよく言われますね。「今日の自分を捨てる」っていうことも被造物としての謙虚さからきているのだと思います。素敵だなと思いました。

 そのようなわけで、私も明日自分の肉体の死or終末がきても大丈夫なように、何か残さねばと真剣に考えるようになり、ずっと頭の隅にあった翻訳プロジェクトの企画を前倒しして同僚の人たちに相談してみたり、色んなところに文章を投稿させてもらう準備をしたりしています。そして、自分の研究内容だけに限らず、自分の見たもの感じたものも「そこに確かに存在したもの」として記録していけたらと思うようになりました。noteというこの媒体にも初めは「自分語り」みたいなのは一切書くつもりはなく、「私はどうでもいい、とにかくスーフィーのことを知ってくれ」という意気込みがありました。私は子供の時からどっちかというと「消えたい」という方向に流されやすく、自分が最初からいなかった世界を想像することで現実逃避することもよくありました。研究者を目指すようになってからも、研究会などで「息してる?」みたいな状態のことも多かったのです、が、そういった態度を反省して「存在」してみようと今は思っています。その延長線上で、自分のみてるトルコに関する発信もどんどん行っていこうという(3)の目標であります。(フィールドワーク便りなる原稿も目下執筆ちう!)

 「翻訳ノート」では翻訳の過程で学んだことを記録していけたら、と思っています。スーフィズム用語なんかを取り扱いながら、それに関連した話もしたいところです。せっかくトルコにいることですしね。

  また、ついでに近況としては、4月中旬からイスタンブルに戻りました。その前は約2ヶ月半ブルサにいました。イスタンブルに移ってから都会ならではの気の詰まるようなことも多く、断食月・バイラムと慌ただしく毎日が過ぎていったのですが、ようやく落ち着き始めました。

 最後に、最近たまたま寄ったココレチ屋の店主がしてくれた話を皆さんにシェアしておきたいと思います(思い出しながらになるので、完璧ではないですが、彼が話しているような体裁で以下に書きます)。

 そうか、日本では外国人に対する規制はすごく厳しいんだね。そのことは今のトルコの状況と比べたらすごくいいと思う。でも、異文化の流入に対しても規制をかけちゃったらそれはそれで問題かもしれないよなあ。学ぶことがなくなってしまうんじゃないのかなあ。
 そうそう、ここで働いてると教授みたいな肩書きの人も来るんだよ。ある日、どこかしらの大学で教えてるホジャ(「先生」の意味)が来てさ、ココレチ食べながら言うんだよ。「どいつもこいつも無知(ジャーヒル)だ!」って。俺もそう思うさ。君にもさっき言ったように、ここ(=トルコ)の人間はみんな無知なんだ。でも俺は言ったんだ。「ホジャ。私もあなたの意見には同感ですが、違う角度から"全員ジャーヒル"って思うんです」って。そしたら、ホジャは「なんだね」って聞くのね。俺は言ってやったんだ。
「ホジャ、あの向かいのビルをご覧ください。あれを建てたのは誰でしょうか。」
「大工だろうね。」
「では、お聞きしますがあなたは大工の仕事を知っていますか。あなたにビルが作れますか。」
「いや、作れるはずない。」
「大工からすれば、あなたも無知なのではないでしょうか。そうやってみんな違う分野の達人にしてみれば無知になりますよね。例えば、私も大学教授からすれば無知ですが、料理人の分野では大学教授は無知になります。その意味で、自分は"全員ジャーヒル"って言ったんです。あなたも例外ではないはずですよね」
こう言ったら、ホジャはもう何も言い返してこなかったよ。だからさ、日本人も「外国人は何にも知らないから」って決めつけて追い出すことばっかりしてたら自分の国の中で「知識」が簡潔してしまうと思うんだ。俺も含めて、トルコの人間はホンッットに無知なんだけどね …

 目の覚めるような話でした。
 店主のおじさん曰く、俺たちトルコ人は「発見」(keşif)する民なんだということでした。ビルを見て誰が作ったのかと考える、アリを見てどれだけ優れた動物なのかと考える、餌を運ぶ鳥たちを見て「なぜ太っている鳥がいないのか」と考える。そして、何かを「発見」する。スーフィズムでも修行の一つとして、テフェッキュル(アラビア語ではタファックル)すなわち「観想」が重んじられることがありますが、まさにおじさんの気づきもそのような行為の上にあるように感じました。日常の些細な気づきが一つの考えを変えるきっかけになるのかもしれませんね。あと、おじさんが作ったココレチは本当に美味しいです(素晴らしい・・・)。


続きます!


いつもいく図書館の庭で生まれた猫たち!


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