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いきりっき2号〈トプラック〉刊行!

トルコに関する読み物「いきりっき」(ikilik)の2号目が刊行されました。

「いきりっき」は同じトルコ研究者である今城尚彦さんと一緒に、トルコに関するエッセイや翻訳を発表する場を作りたいという願いから始めたシリーズです。初号〈エルマ〉は去年の6月に発表しました。

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「いきりっき」というのは、トルコ語で2であるもの、二元性、二つ分の、とかそういう意味です。この読み物は2人の書き手から生み出される「デュオ」なのだという意味で命名しました。(あまり深い意味はないのでした)

相棒の今城さんは、フィールド調査を主体的に行いながらアレヴィーについての研究を進めています。アカデミックな界隈での活躍もさることながら、音楽や写真など比類の無い芸術的な才能が光る人物でもあります。

🌺 ぜひみて欲しい今城さんのインスタ

https://www.instagram.com/immersion7015/

日頃から色々今城さんと情報交換しあうのが私は楽しみで、彼のみてるトルコの話をもっとパブリックな紙面で読みたいなあ(ついでに彼の写真もみんなにみて欲しい)という超個人的な願望から、いきりっきの執筆者としてお願いすることになりました。

そして、実はこの読み物は「デュオ」でありながら、発案の時点から「トリオ」でもあります。

初号から引き続き、編集とデザイン、発行までにかかるあらゆることを翻訳家の川野太郎さんにご協力いただきました。

🌺 川野さんのHPより、ご経歴のページ

https://riversfields.jimdofree.com/about-works/

今回私は、主に移動中に携帯にメモした内容を「誰もがグルベット」という文章にしたのですが、実はその過程で「川野さんだったらどう書くだろうか」と何回も考えたのでした。特に、川野さんが翻訳された『ノーザン・ライツ』とアルテリに投稿されたエッセイを初めて読んだ時に受けた気持ちを思い出しつつ、取り組みました。

🌺 ハワード・ノーマン『ノーザン・ライツ』みすず書房(2020年)

https://www.msz.co.jp/book/detail/08944/

🌺「多重露光」(「アルテリ 11号」2021年2月)

https://daidaishoten.shop/items/601bbfdb6728be358b53298e

川野さんは日常をありのままの言葉と一緒に反復する(反芻する)愛のある人だと思います。誰かにとっては些細な、見逃してしまいそうなことに対する眼差しがとてもいいです。優劣とか善悪の基準と関係なく描写していく感じで、、(それを私は「愛」だと思うのですが^^)。

ダラダラとブルサの友人宅で映画鑑賞したこと、観光気分でコンヤまでバスで行ったこと、どれも日常的な(事件性のない)出来事ですが、私も今回あえて文章にしてみました。そしたらすごく時間がかかってしまいました。が、川野さんなら諦めないで書くだろうと思って、なんとか終わらせることができました。(感謝!)

* * *

後日談的なことでいうと、今回共通のテーマとした〈グルベット〉という概念に関しても色々思うことがありました。

難民としてトルコに住んでいるシリア出身の友人も、結婚してトルコに長年住んでいるアメリカ出身の友人も、トルコに研究しにきた私もみんな「グルベットにいる(Gurbette)」と自分で言えてしまう、他人からも言われてしまうということが頭にひっかかっていました。

グルベットという単語が含む「総称」的なまとめ方になんとなくネガティブなイメージがあったのです。それは日本語でいう「ガイジン」が持つニュアンスと近いものがあります。

誰でもいろんな考え方やバックグラウンドがあって、それでも他所からトルコに来たら「グルベットにいる」と言われる。自分の国から離れることはさぞ大変なことでしょうと同情してもらえたり、日本人なのにトルコ語が上手と褒めてもらえたり、いくらポジティブに自分の存在を捉えてもらっても「ガイジン」としての自分が残り続けるような、どうしようもない感じ。途方もない壁で遮られた分断を感じ続けなければいけないような、寂しさ、孤独感。執筆にあたって、この「グルベット」の感覚をこれまでの経験の中から思い出しつつ、改めてその意味について考えました。

スーフィーの詩では、この世界では誰もがグルベットにいて、誰もが孤独であるという、神と人間、永遠と有限、来世と現世というもっと大きな隔絶・断絶がテーマになってきました。もはやここで言われる「グルベット」が前提とするのは、国の違い、民族の違いとかそういう区分ではないのです。

ある意味、私たち外国人はここで、神のもとから落とされた人間の悲しみを、故郷から離れた外国人という次元で体感している、とも捉えられます。スーフィズムで一見、男女の間の恋愛を描いているように見せて、神への愛を表現するというのはよくありますが、それと似たよう形で、現世からみた「グルベット」と来世からみた「グルベット」と二重の意味が存在するということです。この重層性は、引用したユヌス・エムレの詩によくあらわれていると思いました。

引用した詩は「イラーヒー」(宗教歌)としてもよく歌われる有名なものです。トルコの国民的イラーヒー歌手であるAhmet Özhanのバージョンをご参考までに。(彼は毎年12月にコンヤで開催される、ルーミーの没日の記念フェスティバルで何年もコンサートを任されている大御所です。2021年も彼が代表歌手としてイラーヒーメドレーを披露しました)

https://www.youtube.com/watch?v=hzr0knr5-kY

イラン生まれのアーティスト、Sami Yusufが英語版を披露したりもしています。(私は彼の大ファンでもあります笑)

歌い始めは、次のような詩です↓

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Ben yürürüm yane yane
Aşk boyadı beni kane
Ne akilem, ne divane 
Gel gör beni aşk n'eyledi

我は歩む、燃えても燃えても。

愛は我を血に染めた

醒めることも酔うこともなく

来れ、見よ我を。愛は何をもたらさん。

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こう考えると、グルベットにいるという状態は、外国人になればわかるというだけではなく、宗教や政治的志向の違いや、生き方、家庭環境の違いなどでなんとなく集団の中で浮いてるように感じる人は誰でも感じられるものなのでは、と思います。それぞれの感覚でこの世界は孤独に溢れているし、誰でも「異郷」に投げ落とされたかのような、そんな感覚を味わいうる、と。

今回の記事の背景にはこうした一連の思索がありました。「グルベット」という単語の奥深さたるや。異郷はどこにでもあるのです。

「なに人ですか」という質問に今でも少し疎外感を感じてしまう「ガイジン」の私と、ルーミーの墓廟の前で自然と「日本からきました」と言ってしまう私が同時に存在することは、一貫性がなくて矛盾していると感じつつ、そんな体験もまた異郷でこそ得られるものなのだと、書き終わったあと、なんとなくポジティブになれました。難しいテーマでしたが書いてスッキリしたというのが本音です。

初号であるエルマ(=りんご)では友情をテーマに扱いましたが、2号トプラック(=土)はまた違った出来になりました。今回表紙には、私がコンヤに向かうバスの中でスマホで撮った写真を使ってもらいました(この記事のトップ画です)。今城さんのエッセイでは死が、私のでは孤独が際立つという全体的に渋いテイストに仕上がっています。

今城さんのエッセイのタイトル通り、「異郷の土」を感じてもらえたらいいなあと思います。ぜひお手に取ってみてください。

🌺 セブンイレブンでのネットプリント(A3、カラーがおすすめです)

4/8までのセブンイレブンのネットプリント番号は34Y68ND6、出力費は100円(モノクロも選択可)。

🌺 PDFデータのダウンロードはこちらから

PDFのダウンロードリンク(wetransfer /無料)は https://we.tl/t-Icq1Mb74er。

※プリント番号とダウンロードリンクのいずれも、4月いっぱい更新します。

初号を読んでみたいという方や何かしらのお問い合わせは、個別にご連絡ください。

🌺 真殿Twitter

https://twitter.com/mk_aylanur

🌺 版元Orcinus Orca PressのTwitter

https://twitter.com/kanko_1852

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最後に余談ですが、引き続き私は夏までトルコにいることになりました。

2、3月とブルサで過ごし、すこぶる元気になりました。去年から日本トルコ文化協会にて担当させてもらっていたトルコ語講座も無事に終了しました。(4月からまた始まります)

そして、トルコではラマザンが始まりました。本当に一年はあっという間です。

「いきりっき」もなんとか3号目が出せるといいなと願いつつ、今後も研究活動・情報発信頑張っていこうという気概です。

いつも読んでくださってる方、ありがとうございます。今後もなんとなくでいいので見守ってくださると嬉しいです。


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2021年12月16日、コンサート後に撮ったルーミー廟(コンヤ)



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