翻訳ノート(2)ー「虚偽」(bâṭıl)
● 虚偽(bâṭıl)باطلとは何か?(翻訳ノートより)
…根拠のないもの、誤り、不当な(妥当ではない)、不法な(合法ではない)、空虚な (En.) nugatory, vain, futile, false, absurd, groundless, worthless, invalid
・Kubbealtı Lugatı
1) 正当なものでない、事実とは関係のないもの(Doğru ve sahih olmayan, gerçekle ilgisi bulunmayan (şey))対義語=「真理、真実」(Hak)
2) 空虚な、根拠のない、腐敗した、基礎のない(もの)(Boş, esassız, çürük, temelsiz (şey))
3) 不当な、不法な(Geçersiz, hükümsüz)
・スーフィズム用語集(Süleyman Uludağ, Tasavvuf Terimleri Sözlüğü, Kabalcı Yayınları, 2016)
スーフィーの用例では「神(真理)以外の一切、可能存在、被造物の世界、純粋な無」(maşiva, mümkün varlıklar, yaratılmış alem, saf yokluk)とのこと。
・クルアーン
クルアーンの語句検索の結果→https://www.almaany.com/quran-b/%D8%A8%D8%A7%D8%B7%D9%84/
日本ムスリム協会訳より)
31-30.それはアッラーこそが真理であられるためである。かれを差し置いて、あなたがたの祈るのは虚偽のものである。本当にアッラーこそは、至高にして至大であられる。
ذَلِكَ بِأَنَّ اللَّهَ هُوَ الْحَقُّ وَأَنَّ مَا يَدْعُونَ مِن دُونِهِ الْبَاطِلُ وَأَنَّ اللَّهَ هُوَ الْعَلِيُّ الْكَبِيرُ
2-188.あなたがたの間で、不法にあなたがたの財産を貪ってはならない。またそれを贈って裁判官に近付き、他人の財産の一部を、不当であると知りながら貪ってはならない。
وَلاَ تَأْكُلُواْ أَمْوَالَكُم بَيْنَكُم بِالْبَاطِلِ وَتُدْلُواْ بِهَا إِلَى الْحُكَّامِ لِتَأْكُلُواْ فَرِيقًا مِّنْ أَمْوَالِ النَّاسِ بِالإِثْمِ وَأَنتُمْ تَعْلَمُونَ
・翻訳にあたっての覚書
現代トルコ語のbatılについては、日常用語としてはよく使われるのはbatıl inanç(迷信)かなあと。トルコにも迷信がある。旅に出る人を見送るときに通った道に水をかけるとか、夜に爪を切らないとか、黒猫=不運をもたらすとか。batıl inançとは、そういう類の「はっきりとした根拠がないのに何故か信じちゃってるもの」を意味している。大体の迷信が「ジンクス」みたいなもので「幸運・不運」と関係があるような印象(トルコ語で「ラッキー」みたいな意味はşanslı, uğurluあたりだと思うが、こういうのは神の定める運命を重んじるイスラーム的には少し問題みたいなところがあるのかもしれない)。この辺りのことは詳しく調べてみないとわからないが、イスラームの文脈で元のアラビア語の意味でいうと「虚偽」や「不法な」となるらしい。クルアーンの用法を見る限り、対義語は「真理、真実」(あるいは神そのもの)を意味するHaqqである。「これはアッラーこそ真理であり、死者に生を与え、凡てのものの上に全能であられるからである」(Q 22:6)ذَلِكَ بِأَنَّ اللَّهَ هُوَ الْحَقُّ وَأَنَّهُ يُحْيِي الْمَوْتَى وَأَنَّهُ عَلَى كُلِّ شَيْءٍ قَدِيرٌ
batılという語を翻訳するにあたり、私は最初それを「根拠のないもの」(以前の自分による定訳)とし、その後「無駄なもの」、その後「空虚な」、その後「不当な」、その後「不法な」と変更に変更を重ねた末、最終的に「虚偽」とした。クルアーンの訳に沿った穏当な訳にしておいたのであるが「無駄な・空虚なもの」という訳の妥当性を考えだしたら、自分が何を「無駄」と考えてるかが見えてきてなんとなく反省するという時間があった。真理に照らし合わせば恐らくほとんどのものに意味がないのであるが、「意味がない」=「無駄である」と何者でもなく私が(!)判断することは果たして妥当なのかなあと考え始めてしまった。そもそもスーフィーの見解はいつも逆説的であり、batılは根拠のない「誤り」であるが、それもまた神の顕れであるとポジティブな意味に読み換えてしまう。
ムスリーによると、神(真理なる御方)は虚偽のうちにも現れる、という訳である。むしろ、この世界にはかれしかいない。「無駄なこと」(とたとえ私が考えたとて)、それすらも全部対極にある「真理」の現れである、というのは、ある程度道を極めないとそう悟れないようなことだなあと思う。一方で、「諦念」のようなものをもたらしてくれる考えとも受け取れそうだ。置かれた状況や他人の厄介な言動等に対しても、ムスリーの言う通り「あなた方は善も悪もアッラーから知りなさい」と考えればジャッジしなくて済み、そこまで気にしなくてよくなりそうな・・・(そんなうまくいくはずはないけど)。
じゃあ人間の罪って結局なんなのっていうとムスリーは先に示したように、「高くあられる真理なる御方は願うものを為す者となり、善も悪もあなたの心にかれこそが残す、ということである。あなたは悪を悪魔を介して〔為す〕が、それは思いつきと悪魔の唆しである。善は〔神によってもたらされる〕霊感を介して為すが、それはジブリールの啓示である。しかし、高くあられる真理なる御方はこのような不正を行う者ではない。なぜなら、使者たち(peygamberân)を見れば、彼らはあのように数々の災難に苛まれたが、行為という次元では〔それを災難と〕見出すことはなかったのだ」と言う。
この答えについても2点まとめておきたい。
先に引用したスーフィズム用語集によると、「想念」(Ar. khāṭir *心、考え、欲望、気づきなど他の意味もある)とは「その人の意志がない状態で、神のしもべである人間のうちに生まれる精神的なメッセージ(ḫiṭâb)」と知られる。そして、人間の内にもたらされるメッセージ、すなわち内的世界で聞こえる声には次のような区分があるとのこと。
1)神からもたらされる「慈愛なる想念」(ḫâṭır-ı Raḥmânî)
2)天使からもたらされる「天使的な想念」(ḫâṭır-ı melekî)
3)悪魔からもたらされる「悪魔的な想念」(ḫâṭır-ı şeyṭânî)
4)魂(エゴ)からもたらされる「魂的(自我的な)想念」(ḫâṭır-ı nefsanî)
そしてそれぞれは次のように呼ばれる。
1)真理の想念(ḫâṭır-ı Ḥaḳḳ)
2)霊感(ilhâm)
3)悪魔の唆し(vesvese)→罪(günâh)に通じる
4)考え(hevâcis)や魂の伝達(ḥadîth)→俗な欲望に通じる
1)、2)は宗教の外面的な決定事項には適したもの(=合法ということ)とされる。このような区分はあるものの、天使であれ悪魔であれ、それを媒介としてあらゆる「想念」をもたらすのは「真理」たる神であるとムスリーは述べるのである。不正を行うのはあくまでも神じゃない、と。
そして、神の忠実なしもべである使者たちに関しても言及があるが、別の箇所でムスリーは次のように述べている。
イブラーヒームにおいては羊(生活の基盤)、スライマーンにおいては玉座(地位や名声)、ユースフにおいては美貌(愛欲の象徴?)が神から与えられたわけだが、それでも神から遠ざかることはなかったという(イブラーヒームに至っては全部の羊を取り上げられたにも拘らず・・!)。すなわち、神との強硬な繋がりがあれば、過剰に与えられようが、そして何もかも奪われようが神を咎めることもないし、ましてや「不正を行う者」とは理解しないのである。神のしもべである人間の眼がどこに向かっているかにかかっている。そして、全ては信仰心の問題である。
したがって、ムスリーが言いたいことは、現世において存在しているあらゆるもの・あらゆる状況、それ自体には何も不正なところはなく(それらは真理の現れなので!)、その人自身が「神から遠ざかること」(=ġaflet)が原因となって何らかのものが「虚偽」あるいは「禁止」(ハラーム)になる、ということである。※「神から遠ざかること」を私は翻訳原稿の中では「無関心」として(今のところ)翻訳している。ġafletについては項を改めたい。
恵みを与えるのも、虚偽を為すのも神であり、それをどう捉えるかは被造物である人間の問題である。存在一性論というのは、究極のタウヒード(神の唯一性)をこの世において想定する壮大な宇宙論でありながら、信仰者の心の問題として、あらゆる二項対立を「統一」の方向へと導く倫理観であるとも言えるだろう。・・・面白いですね!(面白くないですか?!)
To be continued …
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