翻訳ノート(1)ー「虚栄」(riyâ')
ニヤーズィー・ムスリー『存在一性論考』についての覚書
『一性の書』(Vaḥdetnâme)あるいは『恋焦がれる者たちの贈り物』(Tuhfetü’l-‘uşşâḳ)とも呼ばれる本書では、クルアーンの章句やハディース(中にはダイーフなハディースと見られるものも含まれる)に対する神秘主義的な解釈や先代のスーフィーたちによるオスマン語やペルシア語、アラビア語の詩句の引用とともに、存在一性論に基づいた世界観が説かれる。本書においてムスリーは、一貫して「真理なる御方」つまり唯一なる神の存在の他には何も存在しないということを強調する。ファナーとバカー、現世と来世、楽園と火獄など、あらゆる二項対立やが真理においては一であることを主張。アラビア語やペルシア語で引用した文の後にトルコ語の単語を用いてわかりやすく言い換えるなど、スーフィズムにおけるソフベット(=講和)を彷彿とさせる形式で書かれているのも特徴的。散文の中では、スーフィズム入門的な『問答集』(オスマン語)と比べると、共通する部分はあれど本書で扱われているテーマはより難解。真っ向から存在一性論とは何たるかを扱っている印象。晩年の『智慧の食卓』(アラビア語)はもっと網羅的であるが、ムスリー思想のエッセンスは本書に凝縮されていると考える。特にムルシド(師)の存在やその役割である「教導」を重んじたムスリーの説教のスタイルが文面に表れている点でも貴重な一冊と言える。なお本書の書かれた年代は不明。
写本の情報:Niyâzî-i Mıṣrî, Risâle-i Vaḥdet-i Vücûd, İstanbul: Süleymaniye Kütüphanesi: MS: Hacı Mahmud Edendi 3299, 97b-115b.
なお訳文の作成にあたり、以下の2点を参照。
・現代トルコ語転写版であるSemih Ceyhan, “Niyâzî-i Mıṣrî’nin Tuhfetü’l-Uşşâk Adlı Eserinde Mârifet,” Elmalı’da İlmî ve İrfânî Eğitim Geleneğimiz, ed. Ahmet Ögke, Antalya: Akdeniz Kültür ve İletişim Kulübü Derneği, 2012, pp. 90-136.
・転写版/ 現代トルコ語訳が収録されているHazret-i Pîr Muhammed Niyâzî-i Mısrî, Vahdetnâme, tr. Arzu Meral, İstanbul: Revak Kitapevi, 2013.
「虚栄」について
● 虚栄(riyâ')ﺭﻳﺎﺀ とは何か?(翻訳ノートより)
…外見、見せかけ、見せびらかし、体裁
Riyâ, ibadetle Allah'tan başka bir şey kasd etmektir. Riyâ Allah'a itaat yoluyla kulun rızasını istemektir.
虚栄とはイバーダ(神への奉仕)を通してアッラーの他に何か意図すること。虚栄とはアッラーに服従するような仕方で神のしもべの充足を求めること。
→ 神のため、と見せかけて実は自分のために礼拝などをすること
※対義語:iḫlâs ﺍﺧﻼﺹ 純真さ、純粋たること
Riyasız ve yapmacıksız inanış, katışıksız tam doğruluk, saf ve temiz sevgi, gönülden gelen dostluk
虚栄がないこと・わざとらしくない信仰、不純物のない完璧な正しさ、純粋で清らかな愛、心からの友情
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Metinlerle Tasavvuf Terimleri Sözlüğü(ed. Zafer Erginli, Kalem Yayinevi, 2006)より
Sufilere göre riya sahibi, gizli niyet taşıdığı, bilinen münafık gibidir. Sözünü saklı tuttuğu zamanlarda kimse onun halini anlayamaz. Onu yalanlar, açıklama yapmasını isterler. Gizli kalan tarafını açık eder ve ayıbını ortaya çıkarırlar. (Kavânîn, 32) p. 818
スーフィーたちによれば虚栄の持ち主は、隠れた意図をもち、既知の「偽信者」のようである。はっきりした言葉で話さないうちは誰もその人の本当の姿を知る術はない。数々の嘘がその人(の本性)を暴き出すのを求めるだろう。隠れた側面を明るみに出し、恥じるべきを晒すだろう。
Riyanin iki yönü vardır: Bir adam iyi ameller işler. Bu amel sayesinde övgüye makama ve takdire nail olur. Ancak Allah, amellerde ihlasa yönelmeyi istemektedir. Yöneldiği şeyde riyayı terketmeye gücü yetmeyen kimseyse, o amelle makama, övgüye, maddi şeylere nail olur. İnsanlar içinde ihlastan en uzak olanlar bunlardır. Bu her şey için böyledir. Sahib olmadığın bir şeyi terketmek sahib olduğun şeyi terketmekten daha kolaydır. (Âdâbı, 121) p. 814
虚栄には二つの方向性がある。ある人が善行をする。この行いのおかげで名誉や地位、称賛に行き着く。ただし、アッラーは諸々の行いにおいて純真さへ心を傾けることを(しもべたちに)求めたはずである。心を傾けたものにおいて虚栄を放棄する力に欠ける者は、その行為で以て地位や名誉、即物的なものに行きつく。人間たちのうちで純真さから遠くにある者とはこのような者たちである。これは全てのことにおいて言える。所有者になっていないものを放棄することは、所有者になったものを放棄するよりもずっと簡単である。
→ 何かを「所有している」という意識があると、それを手放すのは難しくなる。名誉や地位、称賛を「得た」(→それらの所有者である)という感覚を手放せないことが虚栄の元凶。しかし、人間は本来的に何かを「所有」できるだろうか、いや実際は何の「所有者」にもなれない。
Alimlerimize göre ihlas iki çeşittir: Amelin ihlası, amelden sevab talebinin ihlası. Amelin ihlası şudur: Allah'a manen yakın olmayı istemek, emrini tazim etmek, davetine icabet etmektir. Buna teşvik eden sahih itikaddır. Bu ihlasın zıddı nifaktır. Nifak ise Allah'tan başkasına yakın olmaktır. Bu ihlasın zıddı nifaktır. Şeyhimiz şöyle demiştir. ''Nifak, bozuk itikad demektir. Bu da münafığın Allah hakkındaki itikadıdır. Bu, arzu edilen bir şey değildir.''
Sevab talebindeki ihlas ise, hayırlı amelin karşılığında ahiret faydası istemektir. Şeyhimiz şöyle derdi: ''Sevab talebindeki ihlas, kendisiyle ahiret menfaati istendiğinden dolayı, sahibine zor gelse de, hiç bir şekilde reddedilmeyen bir amelle ahiret menfaatini istemektir.''( Minhâc, 71) pp. 418-419
我らの学者たちによれば、純真さには二つの種類がある。1)行いの純真さ、2)行いから(来世での)報いを求める純真さである。前者は、アッラーに意味的(本質的)に近くなることを求めること。かれの命じたことを重んじ、誘いに応じることである。これを後押しするのは真正なる信仰である。この純正さの対になっているのは「二面性」(「不和」という意味もある)である。我らのシャイフ曰く、「二面性は壊れた信仰という意味である。これも偽信者のアッラーに関する信仰(のやり口)である。これは(しもべたちに)求められるものではない」。報いの希求のうちにある純真さとは、善き行いの対価として来世で利を欲しがることである。我らのシャイフ曰く、「報いの希求のうちにある純真さとは、その者自身によって来世の報酬が求められたために、その者に困難に映ろうが、いかなる形でも拒絶できない行いとともに来世での報酬を欲しがることである」。
→ 自身の来世での報い(sevab)を求めて善行をすることも純真さのひとつ
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クルアーン御光章より(日本ムスリム協会訳)
24-46.われは明瞭な印の数々を下した。アッラーは御好みの者を正しい道に導かれる。
24-47.かれら(偽信者)は、「わたしたちはアッラーと使徒を信じ、服従する。」と言う。だがその後、かれらの一部は背き去った。これらの者は(真の)信者ではない。
24-48.かれらの間は裁きのために、アッラーと使徒の前に呼び出されると、見なさい。一部の者は回避する。
24-49.もし、かれらが正しいのなら、素直にかれの許にやって来るであろう。
24-50.かれらの心には病が宿っているのか、それとも疑いを抱いているのか。またはアッラーと使徒が、かれらに対し不公平な扱いをすると恐れるのか。いや、かれらこそ不義者である。
24-51.本当の信者たちは、裁きのため、アッラーと使徒に呼び出されると、「畏まりました。従います。」と言う。本当に、そのような人々こそ栄える者である。
24-52.アッラーと使徒に服従し、アッラーを畏れ、かれに自分の義務を尽くす者、そのような人々こそ(最後の目的を)成就する者である。
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クルアーンでは「偽信者」が嘘つき(二枚舌)で神に対して疑いを抱く不義な者であると説明されるが、スーフィーによると「虚栄」も「偽信者」の特徴である。諸々の行いにおける信者の心の問題が細やかに議論されていることに注目したい。例えば、誰かのために祈る=礼拝(神への崇拝行為)とはならない。また、誰かに「礼拝しろ」と言われて礼拝したら、その人のために礼拝したことになってしまう(神のためにやったことにはならない)のでは?(そもそも、ムスリムにとって誰かに何かを「強制すること」はご法度である。)虚栄とは二面性(表向きは神のため、内側では自分や他人、アッラー以外の何かのため)に基づく。自我を超え、「私」と「あなた」や、神と人間という二分された世界を脱したときに真に虚栄から救われる。ムスリーの意図もここにある。
また、ムスリーによれば、本当の「禁欲家」(ザーヒド)とは見た目によって定まるものではない。真に清らかであるということ。そしてそれはアッラーの属性に自らのあり方を調和(同化)させること。
近代化の時代を生き抜いたスーフィー思想家/ 指導者であるケナン・リファーイー(1950年没)も洋装であり、表向きはフランス語教師であった。今日、この世界に預言者ムハンマドが生きていたとしたらスーツを着ているかもしれない。分かる人には分かる、ということは先の引用にもある通り(「受容能力のある者(ḳâbil olan)は、その方々のお言葉の数々から気がつき、〔その方々が〕何たるかを理解することだろう」)。
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