講和集(2)
当然のごとく、連続でケナン・リファーイーに関することをシェアしていますが、まだまだ続きます。というのも、今年の夏にお世話になっている方々から、ケナン・リファーイー関連の本をいくつか頂き、さらに彼の命日の集会にも参加できたという経験もあり、ちょっとずつ勉強しています。
命日の祈祷式の会場になったシェフザーデモスク(2019/7/7)
ケナン・リファーイーの『講和集』、とてもやさしい言葉遣いで、読みやすくてお気に入りです。回りくどい表現がなく、それなのに奥行がある。うまく訳せているか心配だけど。
なにより彼の生きた時代背景と照らし合わせると、もっと深い読みができるんだろうと思います。トルコの近現代史、でも特に宗教政策に関する部分はもっと勉強しておこうと決めました。
ケナン・リファーイーは1867~1950年を生きたスーフィーですが、その間大きい戦争やら、革命やら、宗教弾圧やら、いろいろありました。そのあたりとしっかり絡めながら、彼や彼の弟子たち、あるいは同世代のスーフィーたちの思想を見ていけたらと何となく思っています。
そんな気分の今日は、戦争と関係している部分を少し訳します。
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理性がない人には、人間としての価値がないのでは、と問いかけるサーミハに対する言葉。
「人間性とは、理性ということだ。しかし、食べる、飲む、着る、歩くといったことのためだけにはたらかせる理性のことではない。人間性というのは、この世界へ来て、この世界から去ることの意味を見つける理性のことを言うのだ。そう、ソクラテスの言葉にもあるだろう。周りの人々に彼は尋ねるのだ、”あなた方が求めるのは、理性的な魂か、そうでなくば、理性のない魂か”と。すると、人々は”理性的な魂を欲します”と言う。ソクラテスはまた尋ねる、”そうならば、なぜあなた方は探さないのですか”と。”それはわたしたちのところにあります、わたしたちはそれをもうすでに制御しているのです、それで…”と人々は返す。この返答によって悲嘆におちいったソクラテスはこう尋ねるのだ。”はて、それなら、この争いやいがみ合い、敵対の数々はいったい何なのか?”
そうだろうとも、この世界の現状を見よ!何年も何年も重ねてきた苦労の後に成熟した人間を、たった一秒で消し去るための様々な技術を発達させる理性!これが、人間らしさだろうか?いや、違う。20世紀、40世紀になっても、またこの、過ちを再び犯す、なんという野蛮な進化なのだ!この世界を戦争へと導く文明の愚かさたるや!」(410頁)
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新しく始まった世界大戦の関連でお話になったこと。
「人間に動物の属性があればあるだけ、喧嘩が終わるはずがない。ましてや戦争が終わるものか!
のちに、あなた方は目撃するだろう。ひとりの人間の口から出た決定で何百人もの人間が行動に出るのを。暴力をふるうのを、破壊するのを、死んでいくのを、誰かを殺すのを。外見と内面が同じであることがこのことから明らかになるだろう。兵隊たちがたったひとつの指令に忠実であるのと同じように、この世のすべての宿命も、ただ神の命令に従うだけだ。そもそも、神のしもべたちが決めることも、真理なる御方である神の望みがひとつの形になって明るみに出たというだけのこと。それ以外に何があるというのか?」(414頁)
(※)生まれながらにして、動物の「属性」(sıfat)をもっている人々がいる。人間には、外に見えている「顔」(surat)とその中に隠れている「内の顔」(siret)がある、と表現されたりもする。それらが、本当は一致するということが世の中の現状を見てたら分かるとケナン・リファーイーは言う。隠れていた人間のなかのケダモノのような部分がどんどん外に出てくる、残酷で醜い世界。その象徴こそが戦争である。
ケナン・リファーイー
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