父との永遠の別れ
4月30日、父親が73歳の生涯に幕を閉じた。父親が亡くなって、もうすぐ1カ月が経つけれど、今もまだどこかで生きているんじゃないか?という気持ちが消えない。私の心は、狐につままれたまま、今もまだ身動きがとれないでいる。
今のこの気持ちを言葉にすることで、自分の気持ちを整理したいと思っていたけれど、なかなかパソコンを開けずいた。父親が残していった祖父母の家を整理しながら、少しずつ自分の気持ちを前も進まなければ、という気持ちになっている。
ひょうんな事から「書くことを仕事にしたい」と思い、まがいなりにも’’ライター’’として何となく記事を投稿したりしている。ライターに向いているかいなかは別として父を亡くした今、強く思うことがある。
「父がこの世界に存在していたことを残しておきたい」
いつか、父親の生きた証を私達家族のために、言葉にして残しておこうと思っている。父がどんな子供時代を送り、どんな青年で、どんな大人になり、どんな父親だったのか......父の口からそんな話を聞くことはもうできないけれど、父がどう生きて、何を考えて生きていたのか、無性に知りたくなった。
父の自伝はいつか書くとして、今はとりあえず、noteを使って父との最後の時間を言葉にしてみようと思う。
突然の入院と何度もの奇跡
母から「お父さんが入院した。あまり状態が良くない」と聞いたのは、私が最期に父と会ってから約一週間後のことだ。あの時、父は元気そうだったのに「何が起きたの!?」と頭の中がパニックになった。
急な入院で、父自身も混乱したに違いない。突然降りかかってきた自分の体の異常と呼吸困難。まだ仕事もしていたから、取引先のお客さんからの電話に出れないことを心配していた。
入院早々、担当医師からは「延命治療」について家族で話し合いをするように言われた。そして、入院から2週間後、奇跡的に父の状況が少しよくなった。亡くなる4日前に、病院から「脈が下がってきている」と連絡を受け、覚悟して向かった父の病棟で看護師さんを待っていると、看護師さんが「あれ?そんな電話はしていないですよ」と言われて、病院の手違いに冷や汗をかいたこともあった。
沢山の小さな奇跡に期待し「もしかしたら本当に奇跡が起こるかもしれない」と願わずにはいられなかった。
命の炎が消える瞬間
命をよく炎に例えるけれど、父も息を引き取る時は、まるで線香花火のようだった。
一か月半の闘病の間、父の体力はみるみる落ち、目もかすむ様になっていた。ベッド上の生活で、かなり痩せてしまった。どんどん体力を失い痩せていき、呼吸器をつけて苦しそうに話す父の姿は正直、見ていてとても辛かった。
呼吸が浅くなり、目も開かなくなってしまった父をみて「あぁ、父は今、あちらに行こうとしているんだな」と、見てわかるほどだった。
亡くなる4日前に面会に行った時が父と会話できる最後の日になった。面会の次の日の夕方には、意識がほぼなくなり目は閉じたまま。亡くなる前日に父に会いにいくと、息が浅くなり、苦しそうな呼吸をしていた。
最後の面会になった日、「温かい父に触れるのは、これが最後になるかもしれない」と思い、父の暖かい体温を確かめるように、ずっと父の手を握っていた。そして、私が帰った1時間半後、母に看取られ息を引き取った。母が最期まで付き添い、父は安心してたに違いない。
父の命の炎が消える瞬間に立ち会い、思ったことがある。
「人の命はなんてあっけないんだろう......」
「線香花火の火が消え火玉が弱くなり、力尽きて最後はポトリと地面に落ちる」まさにあの瞬間は人の死と似ている。
父の死後、母と姉が最期に体を拭き、新品のパジャマを父に着せた。そして、つい数時間前まで暖かかった父が、冷たくなって家に帰ってきた。霊柩車に乗せられて、白いシーツの様なもので覆われていた父のその姿を思い出すと、今でも悲しみがこみあげてくる。
まるで生きているかの様な父の顔に触れてみると、やっぱり冷たい。「あぁ、もう心臓も肺も、体の全部の機能がもう動いていないんだな」。悲しみを通りこして、人の命のはかなさと脆さに、何とも言えない切なく、ただただ悲しかった。
父の死後、通夜、納棺、火葬、葬儀と、目まぐるしい一週間だった。父との永遠の別れから一ヵ月が経とうとしている。
今でも、ふとした瞬間に様々なシーンがフラッシュバックする。父が元気だった時、闘病中の様子、亡くなった夜に病院から家に白いシーツに包まれて帰ってきた時、家から葬儀所へ送り出す時、納棺で思い出の物を入れた時、火葬場で最後のお別れをした時、お骨になった父を抱いた時......すべての場面を鮮明に思い出してしまう。
いずれやってくる家族との別れ
遅かれ早かれ、両親との別れは誰しもにやってくる。絶対に避けては通れない。
父はまだ73歳で、日本人男性の平均年齢より10歳も若かった。「まさか自分がこうなるとは思ってもみなかった」と、父が友人にこぼしていたことを知り、いきなり死の淵に立たされた父の気持ちになると、本当に怖くて辛かったと思う。
コロナで病院の面会も制限されていたので、家族とも会えず、心細かったはずだ。私も、父が入院してから5回位しか会うことができなかった。
母は「まさかお父さんがこんなに早く逝くなんて思わなかった。結婚して50目年の金婚式なんてすぐに来るだろうと思っていたのに」と、葬儀を終えた夜に、私にそんなことを言った。
母も、これからの事を思うと本当に不安だと思う。母の姉が「夫婦2人でいてちょうどいいのに」と母の年齢を指してそんな風に言っていて、1人になってしまった母が一回り小さく見えた。
父が亡くなってから葬儀が終わるまでの一週間、母は手続き追われ、寝る時間も食べる時間もなく、心が休まることはなかった。今も様々な手続きに追われている。
父と母は、いつも一緒にいるオシドリ夫婦ではなかった。「お父さんは空気みたいな存在だ」と冗談で言っていたことを思い出した。目には見えないけど、いなければ困る存在。
父がいなくなった今、母はこんなことを言っていた。
「ごはんを食べる時に、あぁお父さんいなんだなぁと思う」
ごはんの時にしか一緒にいなかった夫婦かもしれないけど、機械いじりが好きで何でも自分で修理してしまう父は、家族にとってとても頼りになる存在だった。
これからしばらく、母や私達は手続きに追われるだろう。本当の悲しみを感じるのはすべての手続きが終わった後なんだと思う。
数年前、父親を亡くした先輩が電話をくれた。先輩の父親も、私の父親と同じ位の歳で亡くなった。「4年経っても忘れることはないし、今も狐につままれたままだよ。それでも、悲しみが日常の中に溶け込んでいく感じなんだよね」と。
亡くなった年齢が年齢だけに「もっと時間を共有したかった」という思いがやっぱりある。父親が亡くなり、父との時間は止まってしまったから、その気持ちは何年経っても消えることはないのかもしれない。
最後に父に伝えたかったこと
担当の医師から「5月の連休はもたない」と言われていたので、意識がほぼなくなった日から、母と姉と私で交代で父に面会に行った。
最後に父親に会った時、父の目は閉じていて呼吸が消えそうになっていた。看護師さんが「最後まで耳は聞こえているそうです」と教えてくれたので、父が暖かいうちに、今までの感謝の気持ちを伝えた。でも、願わくばもう一度会って伝えたいことがある。
「国際結婚を最後は許してくれたんだよね、ありがとう。いつもわがままに自分の意見を通してごめんね。長野にUターンして、4年間は一緒に過ごす時間が増えて嬉しかったよ。車の修理、ばぁちゃん家の畑、屋根の雪おろし、もっと一緒にやりたい事があったのに。もっともっと沢山色々なことを教えてほしかった」
「もっと父と、○○しておけばよかった」
この後悔の悔しさが、一番つらい。
亡くなってから知る’’父’’
父とは昔からあまり話すことはなかった。大学へ進学する時も、留学する時も、国際結婚する時も、すべて事後報告だった。2人でいると何を話していいのか分からない、私にとって父はずっとそんな存在だった。
父親と話すようになったのは、長女が生まれてからだ。父にとって初孫だったけど、里帰り出産して1ヵ月間は長女に話かけることも抱くこともなかった。外国人との結婚をまだ許してはくれてなかったのだと思う。
次女の出産を機にUターンし、実家から車で30分の距離に引っ越したことがきっかけで、父に会うことが増えた。外国人の夫を追い返すことはしなくなった。「お金はあるのか?」とよく心配されていたけど、父親の中で何かが変わったのか、お金の話をすることもなくなった。
葬儀に来てくれた父の友人、父が生前お世話になった方々、本当に色々な方たちとの交流、付き合いを大事にしていた父の人脈力に驚いた。また、父が受け取っていたメールの内容を見ると、世界情勢についてかなり勉強していたみたいだ。父が登録していたyoutube番組を私もよく視聴していて、「なんだ、もっと色々な話をしたかったのに」という心残りな気持ちになってしまう。
これから家族との別れを経験する人へ
父の死は、私達家族にとって寝耳に水だった。本当にあっけない最後だった。「ごはんを食べていたら台風が突然やってきて、すべて奪っていった」そんな一瞬の出来事だった。入院する直前まで元気だったから、葬儀に来てくれた人たちはみんな驚いていた。
今でも私は、父にもう永遠に会えないことが信じられないし、父親がまさかこんな形で逝ってしまうなんて、なぜ父親が......という気持ちが消えない。父の死を受け入れようと思っているれど、あまりに突然だったから、心の準備をする時間がなかった。
父親は毎年、空き家になっていた祖父母の家で野菜作りをしていた。今年は父親と一緒に野菜を作ろうと思っていた矢先に、父は逝ってしまった。
正直、自分の父親がこんなに早く亡くなるなんて想定外だった。
「いつか、いつか」と思っている、その「いつか」は永遠にやって来ないかもしれない。家族と過ごせる時間は案外短い。だからこそ、先送りにせずに「今」やってほしい。
「仕事があるから」
「次の休みに会いに行こう
「今県外に行くと大変だから、また今度」
そんな風に家族と会う時間を先送りにしていると、会いたい人はもういないかもしれない。
家族を失う、ということは本当に悲しくて辛い。自分の体の一部を捥ぎ取られた様な感覚だ。きっと、この心の虚無感が消えることはなんだと思う。
だからこそ、あなたに伝えたい。
「会いたい人が、家族が、友人がいたら今すぐに会いにいく計画をして下さい」
明日は、父の四十九日。今、どの辺りを旅しているのだろうか。あの世で祖父と祖母に会えただろうか。
聞いてみたいことはいっぱいあるけれど、父の返事はもう永遠に返ってはこない。