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生きやすい世の中にしたい

働いていると時折窮屈さを感じる。
常識とか責任とか、見えない重さに振り回される機会が増える。

人がミスをしない前提になっているような。
しかもそれを会社の構造やハード面ではなくて、個人の問題にしているような。
そんな危うさを感じる。

例えば感染症対応

今までインフルエンザに罹らないように私自身毎年予防をしてきた。
だけど「絶対罹りません」なんて自信をもって言えない。


学校が感染症が流行しやすい環境の中で、新型コロナウイルスは学校に1人感染者が出ると全国に報じられる。
クラスターが発生した学校は、想像でしかないが、消毒作業も以降の指導もとてもとても気を遣うだろうなと想像する。想像するだけでつらくなる。


持病や高齢者に関わる人々はシンプルに病気の怖さから予防に励む人がいるだろう。

ただ私も含め、私の周りにいる多くの人は「人目」を気にして予防しているのではないだろうか。
屋外で会話もしていないのにマスクを外すことになんとなく抵抗があったり、遠出したことを周りに言いにくいのは、誰かに責められたくないからではないだろうか。

これだけ気をつけていたのに感染症になったのは仕方ない。

病気を防ぐためではなくて、万が一罹患したときに責められないための対策をする。

個人ですらそうなのだから、企業や個人店、学校は尚更だ。

そうやって気を張る毎日。
監視し合う毎日。
ゴールが見えない毎日。
いつ変異するか、流行するかわからないウイルスに怯える日々を過ごす。


正しい情報を取捨選択、というのは高レベルな能力だと思う。
今は情報が多く、そして更新が早い。
新聞や政府等の発信元を信用しない人もいれば、専門家でもなんでもない身近な人の言葉を信じる人もいる。
正しいか正しくないかではなく、信じたいか否かなのだ。

そういうバラバラの価値観の中で、日本では諸外国のように医療崩壊になるような大流行まで進まなかった。
その要因に、上記の「監視による行動の自粛」も含まれていると思うと、複雑な気持ちにはなる。


原因追求の意味

感染症対応は一例だが、他人のミスに対して厳しいのは連帯責任の文化の名残だろうか。

努力すればミスを防げる、きつく注意すればミスは防げる…学校の先生の中にもたまにそういう考え方をもっている人に出会うが、意識だけでミスが防げるなら苦労はない。
1人の力は限界があるし、誰にだって得意不得意がある。その時の状況や状態もある。
誰のことも本当は責められない。

原因を追求する理由は、今後ミスによる損失を防いだり、構造の見直しをするために行うためのものだと思う。
個の責任追求のためなら、それはもう裁判と同じだから、裁判所に任せれば良い。周りが言うことじゃないだろう。

お互いを監視し合うより、承認し合う社会。
責め合うよりも許し合う世の中。
そうなったら、生きやすくなる人が増えるだろうなぁ。




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