やはりカードゲームが全てだった

飽食感

カードゲームが全てだった。全てはカードゲームを通じ得た。持っている誇れるもの全て、なぜそれを獲得できたかを考えると、カードが得意だったからに行き着く。ものごころついてから、20代前半でプロカードゲーマーになるまで、激しい劣等感に突き動かされて生きてきた。

そんな、劣等感に突き動かされて生きてきた人生は、苦しくはあったが、動き出してからは楽しかった。プロカードゲーマーを目指している間の、飢えが満たされていくかのような、疾走感に溢れる日々は最高だった。人生で一番、生の喜びを感じていた。今、かつてよりは劣等感に苛まれたりはしない。しかし、前回の記事から3年、劣等感から解放されて、穏やかな幸福感に包まれていたかというと、そんなことはなかった。

焦燥と虚無感。

プロカードゲーマーを一生続けるかと考えると否だった。得られるものは得た。もっと成したいことがある。死ぬ時、自分が生きた世界を自分は良くできた。自分のできる最大限のことをできたと思えるように生きたい。そんなことに熱中したい。

しかし、全てだったカードゲームの代わりはそう簡単には見つからなかった。休学から復学したものの、熱中できるテーマは見つからなかった。カードゲームの代わりに自分を満たすものをアカデミックで見つけて博士を取り研究の道へ行くことは叶わず卒業した。

飢えを感じなくなった代わりに、食の楽しみを失ったような感じがした。
今ならはっきりわかるが、劣等感に突き動かされて自分のパフォーマンスを最大限に発揮していた日々は一つの幸福の形だった。

関わる人たちに、尊敬する人の割合が増えた。それまでの人生では、こんなところ出ていってやるとばかり思っていた。人間関係のストレスが大幅に減った。これ自体はいいことだが、「こんな奴らとは違うところに行ってやる」という劣等感の原動力もなくなった。

尊敬できる人、自分の生き方を確立した人といると焦燥を感じた。博士やOBの起業家の先輩を見て、この人たちのように自分もなろうと思う気持ちは、日に日にその人たちに全く近づく感触のないことへの焦燥感へ変わっていった。

一度自分が離れようとしたカードゲームの世界ですら、コミットを続ける人には羨ましさを感じた。自分がいた場所で、自分とは異なる人が、異なるものを見て、それを人生を懸けるに値するものとして選ぶ。美しく、羨ましい。彼らはカードゲームにこれだけ私が全てを注いでも見つけられなかったものを見つけたのだ。

劣等感から逃げる人生から、情熱で好きなもの、やりたいことを追う人生へシフトしようとした。しかし、情熱が見つけられない日々に次第に虚無と焦燥を感じる日々は増えた。駆り立ててくる劣等感と駆り立てられる先があった日々が恋しくすら感じた。

焦燥感

一度就職することにした。この就職は一種の現実逃避でしかないが、一応現実逃避なりのロジックはあった。プロプレイヤーになってからの3年、ビジネス観点の欠如は痛いほどにつきつけられてきたからだ。

3年前、プロ契約を終了した私は自分のビジネススキルの低さに直面し、無力感に打ちひしがれていた。結局プロとは広告塔であり、強さだけで成り上がった「プロプレイヤー」は相手にされなかったのである。今私を「プロプレヤー」として知っている人は、一線級のプレイヤーとしてよりも、物書きとして知っている人が多いだろう。勝ちまくっていた年より、大して勝たなかったがブランディングの重要性に気づいた後の一年の方が注目を得られた。自分が実際に強いことは、自分の作ったものを見たいと思ってもらってはじめて意味を持つ。マーケティングとブランディングを蔑ろにして何も得られなかった一年の後に、それらの重要性に気付かされた一年があった。

大学院でも似たものを感じた。環境のための技術を進めたいと考えていたが、言ってしまえば農学部は金がなかった。いや、金というよりも、それを推進するだけのインセンティブが世界で見れば一部の人にしかないことが、金がないという状態をもたらしていた。金があるところは何かしらの事業につながっており、純粋に環境のためというものは本当に金がない。結局は、他人や環境をないがしろにした消費の欲望からなるサイクルに組み込まれている。その中で環境負荷を比較的マシにできるかもしれない。しかし、消費社会そのものの仕組みはどうしようもない。もしこれを解決できるとすればそれは、環境にいいことを「かっこいい」と思わせるブランディングであったり、それが儲かるようにする報酬体系を作る事業創生であったり、ビジネスのフィールドだ。

ビジネス観点を持ち、欲望の報酬体系そのものにアクセスできるようになってやろうと思った。事業や組織を作る側の人たちと縁があり、彼らの出身企業に入った。いわゆるITメガベンチャーである。ここで出会った人たちは素晴らしく、得たものはとても大きい。一方で、自分の選択については今からするとなんと愚かだったのだろうと思う。入社前、無邪気な期待感と束の間の安心感に甘えて時間を浪費していた自分を殴りたい。不確実なそれっぽいものに人生の選択機会を委ねて不安から解放された気持ちになる、愚かな視野狭窄だ。

どんどん新しいものに挑戦してどんどん吸収してやろうという気持ちでいたが、うまくいかず。それもそのはずで、自分が獲得したいと思った能力を持っている人たちが入社したのはもう10年以上前。色々状況が違った。すでにあるプロダクトの運用や社内で決まったプロトコルを覚えること、それをやったという信用を得ること…すでに会社は違うフェイズになっていた。すでに大きくなった事業や協業先の存在から、リスクリターンの分岐点は違うものになっていた。

配属されて三ヶ月ほど経って、期待した新しい価値を作り出したり、それをビジネスとして成功させる方向への成長は何もなかった。まだ信頼を得られてないうえに、信頼を得たところで提案するための能力も上がっていない。焦りから業務後の学習時間を増やすが、焦燥感は増していき、眠れなくなった。進歩のない現状に焦ってはさらに体調が悪くなり、さらに行動できなくなる悪循環に陥った。

(会社の名誉のために強調しておきたいが、マッチしなかっただけで、労働環境はどう考えてもよかった。関わった人との関係も良好で、退職後も一緒に旅行に行く友達もいる。)

自分の性質を考えれば、さっさと退職して次のどんどん試行できる環境を探しに行くべきなのは明らかだった。「とりあえず2年やってみたら?」と言う人もいた。しかし、時間は有限だ。気づけば20代も終わりそうだ。まだ一応若者の年齢ではあるが、その体力があるうちに「とりあえず2年やってみる」はあと何回できるか?リスクがあるという人もいた。不安を感じないわけではなかった。しかし、どう考えてもよい労働環境で一人燻って苦しんでいた自分の状況を一般的なものにあてはめるのは間違っている。今無駄にしているこの時間が最大のリスクだ。自分を納得させられるのは自分だけ。

ここでようやく直視した自分の失敗は、自分は新しいものを作りたいのにも関わらず、誰かが築いてくれたすでにある評価体系にのっかろうとしてきたことだ。ITという業界も10年少し前はまだ海の物とも山の物ともつかぬ扱いだったはずだ。すでに評価されたその業界の大企業で、その評価を受けながら評価される前の高揚感を味わおうなどとはまさに二兎を追うものだ。リスクがない選択なんか存在しない。リスクから目をそらさず、取るべきリスクを選ぶ。カードゲームで最も大切な自分が得意なはずのことができていなかった。

どちらか選ぶべきだった。ならば私は魂が揺さぶられるほうを選ぶ。誰かが作った安定した成功の型の中、安心を得られるように自分はできていない。誰かの成功にのっかって、その人を超えることは永遠にないそれなりの「成功」を収めながら、完全な新しいものは作らないなんて、そんなものはワクワクしない。魂が揺さぶられない。

無職エントリ

職業は英語でoccupationである。人生をoccupy(占有)するものということだ。自分の人生は自分で決める。これからの人生、自分の職業は無職であると認知して生きていきたい。今も収入源はあるので、定義上フリーランスや個人事業主ではあるが、誰かの価値観で人生をoccupyする気はない。

無である自分をoccupyするものを探し続ける。一生熱中できるものなんて、ないのかもしれない。プロカードゲーマーをやってから別の道を探したくなったように、一回見つけても状況が変わればそうでなくなるかもしれない。それでも、これまで迷ってきたように、これからも迷っていく。「もう迷わない」などとは言えないが、もう迷うことから目を背けない。

自分の生き方は自分で決める。失敗しても成功しても自分のせいだと納得する。人生は所詮博打だと思う。なら失敗するにしても誰かに打たせて文句を言うより、やりたいと心に訴えかけてくる博打を自分で選ぶ。

入社エントリ、退社エントリという入社や退社に際した表明をポストするものがある。自分の場合は誰かが成立させた既存の職に頼らない表明としての無職エントリだ。

やはりカードゲームが全てだった

改めて自分に何があるか考えると、やはりカードゲームしかない。そこから離れて研究や企業でやっていこうとして燻っていたが、そこまで行く助走は全てカードゲームを通じて得た経験や技能、自信だ。自分がいいと思う世界へ、熱中できる方法で貢献できるとするなら、やはりこれを使うしかない。自分の手札はこれしかない。

自分が好きなゲーム体験は、ゲームを通じて何かを得るものだ。直接使うものであれば確率論や不確実性の取り扱いだが、それ以外にも試行錯誤の方法論、自分の弱点の発見、それを妨げるバイアスの自己分析などなど。

最近の世界の報酬体系はこのようなゲーム体験をなくす方向へ傾いているように感じる。買い切りのゲームはユーザーにいい体験をさせることが儲かることに繋がった。しかし、収入源が広告であったり、課金し続けるゲームでは場合によってはユーザーに不満を抱かせて課金により解決させた方が儲かることもある。ユーザーがゲームを真に解明して賢くなるより、人間の苦手な確率判断のパターンに嵌め込んだほうが得することも多い。

自分が好きな体験、他の人にもしてほしいと思う体験を守り作るものを作りたい。ゲームは搾取の手段ではなく、成長機会であってほしい。それはレガシーな学問より手軽に手にできるものであってほしい。そういうものを自分で作っていきたい。

執筆は、数少ない手応えがあることだ。文章表現は読むのも書くのも好きだ。元々、デッキや環境の解説だけではなく、考え方や理論をずっと使えるものとして持ち帰ってほしいと考えてはじめた。自分だけで終わらないものにしたいこと、自分がやっているカードゲームに限定しない理論であることを示すため、「一般TCG理論」と名前をつけた。ありがたいことに、理念は共感され質の高い記事がnoteのタグ検索では見ることができる以前から参加している同人誌のサークルからこのテーマで出した本は過去最大の冊数を更新し、重版までできた。さらに今年は記事最後に書く嬉しい進展もあった。

ゲーム開発も始めた。自分が作りたい体験があるなら、すでにあるゲームでユーザーがその体験をできる確率を上げるだけではなく、自分でそういうゲームを作ればいい。試しにカードゲームに自分があるべきと思う最小限の要素を入れた可能な限り単純なゲームを作って公開したところ数日で3,000人ほどに遊んでもらえた。初動の反応としては良い。特にいいのは、カードゲーム強者のような自分の好きな体験を好きな人たちに刺さっていることだ。TOP100位までの順位を表示しているが、私が公開したときにプレイして出した最高スコアはすでに更新されてTOP100から追い出された。現在は即席のUIだが、これを工夫してより多くの人が楽しめるようにすることが自分の作りたい体験を作ることだと思う。作りたい体験に近づけるように開発を続けていく。

どれがうまくいくかはわからない。また別のことをはじめるかもしれない。失敗や迷いも含めた試行の数を撃って熱中できること、やりたいと思えることをやっていく。

最後にひとつうまくいきそうなもののお知らせをひとつ。

本を出します!

一般TCG理論の路線で商業から新書を出版できることが決まりました。現在執筆中で来年中に出版を目標に書いています。筆者は私一人で、より体系的にまとめて、ライトなカードゲーマーもターゲットにしたものにします。
より詳しい発表は近いうちに。

それでは良いお年を。


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もりゆき
おもろいこと書くやんけ、ちょっと金投げたるわというあなたの気持ちが最大の報酬 今日という日に彩りをくれてありがとう