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魔女の贄 左

 泉の水はこんこんと湧き出し、陽を浴びて、七色に光る。
 静かな午後、水路を辿り、家へと帰る私は、街のブルーベリータルトを二つ、贅沢して、軽い足取りで森の道を歩いていた。読みかけの本と一杯の紅茶が、この昼下がりを満たしてくれる。
 水路では、持ち主を失くした笹船が堰を越えて、街へと下る。大航海の大冒険、波瀾を横目に、勇者の旅立ちを私は見送る。マストのない小舟でも、森の奥から、おだやかな風が背中を押してくれるだろう。

 泉には、ある伝説がある。
 泉の底に金貨を投げ込むと、一つ願いが叶うのだ。
 けれど、そのお願いは、恋に限られている。しかも、男性から女性に向けた、ささやかな初恋の願いだけ。
 何でも、泉の精はとある美男子に恋をして、そして、思いを告げられないまま、互いに別れてしまったのらしい。噂では、美男子は泉に写った自分自身に恋をしたのだとか。
 そんなわけで、失恋に傷付いた、偏屈な泉の精にお願いに来る男の子は、そう多くない。のだけれど、今日は泉の側でお祈りを捧げている青年がいた。

「願いごとですか?」
 私が声をかけると、青年は飛んで驚いた。
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったのですけど……」
 青年は佇まいを直し、
「いえ、別に驚いた訳では……」
 と赤面する。
 その様子がおかしくて、口元に手をもっていくと、青年はもっと赤くなった。
「願いごとなら、私が話を聞きますよ?」
 泉の願いごとは、人に話すと叶いやすくなるらしい。けれど、まあ、この噂は誰か物好きが吹聴したのかもしれないけれど。
「実は、願いごとというほどのことでもないのです。今日は森の魔女へ会いに来ただけで」
 青年は髪を撫でつけて、はにかむ。
「何か、ご用が……?」
「その、幼い頃の話ですが、故郷で流行り病が起こった時、一年ほど、この近くの街に暮らしていたのです。その時、親しくしていた女の子が、今、どうしているのかな、と」
「魔女に占いを頼むついでに、泉にお願いをしていたんですね」
 はい、と頷く青年は、若者らしく、血色のいい頬をしている。
「その女の子のこと、どう思っていたんです?」
「あ、いえ、そういうつもりではなくて……」
「けれど、わざわざ、この街に探しに来るほどなのでしょう?」
「そ、そうですが……」
「大丈夫、ここには私しかいませんから」

 泉の水は、さらさらと流れていく。遠いあの日の思い出のように。
「じ、実は、結婚を申し込もうかと。成人の儀も済ませましたし、私ももう、そういう年ですから」
 そこまで言い切ると、青年はまた赤面した。
「そのお申し出、お受けいたします」
「……え?」
「申し遅れました。私、森の魔女ブライアと申します。あなたの願い、叶えてさし上げます」
 スカートをつまんで、仰々しく挨拶をする。ぽかんと口を開けた青年に、少し良心が痛んだ。
「ごめんなさい。中々、言い出す機会がなくて」
 そう言うと、青年はまたまた赤面した。
「そ、そうでしたか。森の魔女とは知らず……その、それで彼女はどこにいるでしょうか。突然で申し訳ないのですが」
「ステファン、指輪は持ってきていますか?」

「ええ、持っています。ですが、どうして私の名を?」
「では、ステファン。私に、彼女に言うはずだった言葉を捧げてください」
 さあ早く、と促すと、彼は首をかしげながら、私の前に跪いた。
「麗しの君よ、長い月日の中でも、君を忘れたことはない。どうか、あの頃の思い出が嘘でないのなら、その証として、この指輪を受け取ってくれないだろうか」
 ステファンの碧い瞳をじっと見つめると、彼は例のごとく赤くなった。私が微笑むと、目を逸らす。仕方なく、私は非誰手で、指輪を捧げる彼の手に触れた。
「ステファン、まだ分からない?」
 そう言うと、彼は初めて、私を正面から見つめた。けれど、彼はまだ気付かない。
「あなたの思い人は、あなたの目の前にいますよ」
 と魔女の口調で言ったが、ステファンは、からかっていますか、とまったく察してくれない。
 本当に、最後の手段として、左手の小指に視線を流すと、
「あっ!」
「あなたがくれた指輪です」
 幼い頃、ステファンが私にくれた木彫りの指輪。今では薬指に入らないので、小指にはめている。
「そうだったのか、君が森の魔女だったんだね」
 彼は私を抱きかかえ、熱くキスしてくれた。
「どうして、こんないじわるをするんだ、オーロラ!」
「私は、見た時から気付いたのに。気付かないステファンが悪いの」
 ステファンは私を下ろすと、真面目な顔になって、私を見つめた。まだ赤面は治まっていなかったけれど。
「これから、お茶でもどう? ちょうどタルトを二つ、買ってきた所なの」
 私たちは手を繋いで、歩き出す。日差しの中に、あたたかい紅茶の香りを感じ、ついうれしくなる。
 泉の水はあまりに透明だから、紅茶の色が鮮やかに出る。ブラックティーの真紅の色は、つつましい幸福の色をしている。

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